In other words

I really don't know life at all ...

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お正月におせち料理は必要か?毎年悩みながらも、結局はおせちを用意してしまう理由。

毎年この時期になると、百貨店からおせち料理のパンフレットが送られてくる。

一応目は通すものの、あれこれ考えながら何度も繰り返しページを捲り、その絢爛豪華なおせち料理を見ていると、決まって溜息が漏れる。

おせち料理は必要なのか?と。。。

ここ数年、おせち料理に関しては、かなり頭を悩ませている。
用意したところで、外国人である夫や子供達は進んで手をつけようとはしない。私も正直言えば、「一生懸命」食べていると言った具合で、お正月でもなければ好んで食べるようなものではないのだ。
一人で延々と食べることにも限界があるので、いつも夫には「祝膳なのだから」「食べると今年のビジネスは凄いことになるかも」などと適当なことを言って、無理矢理消費を手伝ってもらっている状態だ。

おせち料理の値段はピンからキリまであるけれど、どんなに小さなものでも、百貨店などでは安くても一万数千円はする。
これが家族4人分となると、3万、4万円などまだ安い方だ。

好きでもないものに、そんなお金を払うのは、まさに無駄遣いの範疇ではなかろうか?
近年はそんな意識から、4人分ではなく小さな気持ちばかりのおせち料理を選ぶようにしているのだけれど、それでも毎年のように消費するのに一苦労しては、おせち料理はなければいけないものなのか?と、悶々とするのだった。

そう承知の上で、なおも毎年おせち料理を用意しているのは、それが習慣であり、「用意しなければいけないもの」という意識がしっかりと根付いてしまっているせいなのだろう。

「今年こそは、おせち料理は用意しない。好きなものを並べればいい」

寸前までは、ずっとそう思っているのだけれど、いざこうしてパンフレットなどが送られてくると、気持ちがグラグラと揺れだす。

「年に一度のことだし、なによりもお正月におせち料理が並ばないのはおかしい」
「祝膳を用意してこそ、一年健やかにすごせる」

そんな思い込みが、しっかりと心に根を張って動かない。



おせち料理とは節日を祝うため、神様にお供えするお料理のことだそう。
つまり、自分が楽しむものではなく、神様にお供えしたあとに、頂く料理なのだ。
そう考えると、自分は要らないと思っても、神様はどうしましょう。。。ということになる。

いかなる宗教に対しても信仰心はないとはいえ、神様の存在を否定するほど、私はリアリストではない。
お正月早々、神様の存在を無視する勇気はないのだ。

つまり悩ましさの根源とは、そこなのである。
欲しくもないものにお金をかけることはしたくない。けれども日本人としては、一年で最も重要な節日をおろそかにもできないということだ。

もう一つ、我が家では主人が外国人ゆえ、私がおせち料理を用意するのと同等の権利を持っている。つまり、夫にとっての祝膳だ。
これは結婚以来、何十年も習慣としていることで、お正月に食べたいものを好きなだけ買っていいという決め事だ。
毎年、普段は買わないような値段のはるチーズやワイン、オードブルなどをデパ地下で買い漁るのが夫の楽しみになっている。
これに便乗し、子供達の好きな中トロのお刺身といくらは、飽きるまで食べようと、ここで更に夫が大盤振る舞いする。

これはおせち以上に高額になるのだけれど、子供達も一緒になって喜んで食べるので、なにひとつ無駄になるものはない。みんなで「美味しいね、美味しいね」と、食べているので、多少お金がかかっても、それはよいお金の遣い方だと納得できる。

そうなると、いよいよおせち料理の意義が問われることになるのだ。

もはや、我が家は日本人家庭ではないと思い込む手もあると、一瞬チラリと思ったものの、家族はともかく私だけは生涯日本人だ。
お正月にはやはり簡素でもおせち料理と呼べるものが並んでいてほしい。



そこで考えるのが、なにも百貨店などで買う必要はないということだ。
問題が「食べたくもないものにお金を払うのは無駄」ということなら、最小限の好きなものだけを自分で作り、お重に詰めて用意すればいいではないか。

昔はおせち料理も家庭で作っていたお宅が多い。
今でも、すべてのおせち料理は手作りで用意しているというご家庭もあるのだから、特別なことではない。
昭和の主婦に倣った簡単な解決策。

実は何年か前も、そう思ってやってみたことがあった。
しかし、その翌年にはまたおせち料理を買ってしまったのは、自分で揃えるのがとても面倒で、思っていた以上にお金がかかってしまったためだった。

すべてを手作りでするほど料理好きではないので、黒豆や栗きんとん、なます、筑前煮など、自分の好きなものは手作りし、他のものは個別に買ったものをお重に詰めた。

作るのも面倒だけれど、一つ一つ買い集めるのはさらに面倒だった。
なにを詰めようか考えながら、さらにはお重の大きさに合うようパッケージの分量も考慮し、ついでに値段にも心砕きと、ようやく買い揃えたら、今度はいちいちレイアウトを考えながら、買ってきたものを開封し、お重に詰めていく。。。

そんな作業をしながら、たいして安くも上がらなかった、おまけにこの労力を考えたら、おせち料理は買った方がコスパがいいのではないか?
そう気づいたため、翌年からはまたおせち料理を買うようになったのだった。

よくよく考えてみると、あの頃の私は頑張りすぎていた。
まだ子供達も学生で、家族4人分のお正月料理をと張り切っていた頃だ。
当時は桃の節句もクリスマスもお正月も誕生日も、とにかく沢山のお料理で食卓を飾り、家族を喜こばせることに懸命になっていた。

しかし、いまはどうか?
もはや子供達2人は成人し、夫は単身赴任となったため、私は頑張る必要がなくなった。

最近も唯一、一緒に暮らしている次女に、「お正月料理どうしよう。。。」と呟くと、「大変だから、もうそんなに張り切らなくていいんじゃない?」と、言われた。
さすがにお正月は全員が揃うだろうけれど、一人暮らしをしている長女は元旦の夜には帰るだろうし、単身赴任の夫も三ヶ日を過ぎれば赴任先へ戻る。
そんなにあれこれ用意しても、消費しきれないはずだ。

つまりは、以前のように本来おせち料理に入っているものすべてを用意する必要はなく、最低限のものだけ、お重に詰めればそれでいいということだ。



おせち料理に入っているものには、それぞれ縁起の良い意味や願いが込められている。
例えば、黒豆なら黒く日焼けするほどマメに健康に、数の子なら子孫繁栄、田作りは豊作といった具合に、それぞれ意味がある。

ならば、この意味を知り、それぞれ我が家にとって必要な願い(具材)を詰めればどうだろうか。
まるで初詣へ行った神社で御守りを選ぶように、健康、長寿、魔除け、金運、家庭円満など、自分にとっての願いをお重に詰めるのだ。

神様にはこちらの意向に合わせてもらうことになるので、申し訳ないけれど、祝膳を美味しくいただくためには許していただこうと思う。

数の子や昆布巻き、里芋など子宝系はもはや必要ない。私はもう産み終えた。
黒豆や菊花かぶなど健康に関わるものはマストだ。これからさらに必要になる。
さらに欲をかいて、栗きんとんや金柑などお金に関する願いも叶えて頂きたい。
お多福豆も福を呼び込んでくれそうなので加えてみようか。

こんな風に考えていると、自分で作るのも楽しくなりそうな気がする。
面倒だと思っていたことも、自分と家族の利益になると思えば、それがたとえただの「願い」だとしても、さして苦にはならない。

昨年、陶器製の三段重を買った。かなり小ぶりなものなので、今年はそれにマイチョイスのおせち料理を詰めてみようと思う。

何もかもがどんどん値上がりしているいま、お正月だからといって、大盤振る舞いすることもない。
質素に、ささやかだけれど、美味しいお正月料理を家族で楽しめればそれでいい。

今年はしっかりと予算を決めてみようか。。。
毎年同じことを言いながら、結局は年末にデパ地下で夫と一緒に散財してしまうのだけれど、今年こそは!なのである。

ただ、すんでのところで「やっぱりおせち料理買う!」と心変わりする可能性は大きい。
毎年そんな感じだからこそ、パンフレットが送られてくるたびに、悶々とし、結局は同じことを繰り返しているのだから。

果たしてどうなることやら。。。



後日。。。
ここまで書いて、あとは添削してアップしようと思っていたところで、事情が一変した。

夫と電話で話していて、今年は転職したばかりで、かなり仕事が忙しいため、年末年始の予定は年内ギリギリになるまでどうなるかわからないという。
外国人の夫にとってお正月は、食べる楽しみだけで、どちらかと言えばクリマスの方が大切だ。
赴任先から帰宅するのなら、クリスマスの方がいいらしい。
そこで、年末年始は無理をして帰ってくることもないのでは?と提案してみた。

もう子供達も大きくなったことだし、SkypeFaceTimeで、顔を見ながら「happy new year !!」だけでいいのでは?と。

年末年始は飛行機も新幹線も早く予約しないと席を確保できないだろうし、予定が決まらないことには動けない。

夫としては、これまでそうしてきたように、「行事日には家族揃って過ごさなければいけない」と思い込んでいるようだったけれど、私はもうそんなことから卒業してもいい時期にきたと思っている。

子供がいると、子供中心の生活が前提になるけれど、それももう終わりだ。
新たなステージにきたのだと、気持ちを切り替えて、今後は各々の事情で物事を決めていってもいいのでは?と夫に話した。

夫にとっては、いま仕事を頑張ることが一番だ。年俸が下がろうが、単身赴任になろうが、自分がやりたいと思って選択した仕事なのだから、そこに全力投球したい気持ちはよくわかる。
私もまた、ひとりでも楽しく暮らせる術はある。

「こうでなければいけない」というしがらみはもう捨てて、自分達にとってベストと思える暮らしを作りましょうということになった。



そこでおせち料理である。
夫がいないお正月となると、さらに縮小化が望まれる。
もはやおせち料理を自分で作るという気はすっかり失せた(笑)

正直なにもしたくない。。。

そう思っていた矢先、一人暮らしをしている長女がやってきたので相談してみたところ、「年末年始は、うちに来たら?」と。ペットがいるので、一晩でも家を空けたくないらしい。

例年のように、家族みんな揃うわけでもないので、大袈裟にお正月料理を用意する必要はない。
長女の家へ私と次女が行き、大晦日にはお蕎麦屋さんで年越し蕎麦を頂き、元旦に少しばかりのお料理が並べば十分だ。

では、そのお料理はどうするかが問題になる。。。

長女はまったく自炊をしないので、家にはほとんど調理器具もなく、食器類も家を出る時に持っていたものだけと最小限しか揃ってはいない。

すべて持ち込みになると想像すると、作るのも運ぶのも面倒だ。
やはりお重に入ったおせち料理を買い、それを持ち込むのが一番楽で手っ取り早い。
とりあえずおせち料理のお重がテーブルにあれば、格好もつくだろう。なんと言ってもお正月なのだから。

そんな時、これぞ!というおせち料理を見つけた。
量はちょうど3人分、和洋折衷で子供達が好んで食べるようなものも入っている上、お節に欠かせない縁起物も完全網羅。
お値段も2万円でお釣りがくるという、なかなかのリーズナブル価格。

このお節だけでは飽きそうなので、子供達のリクエストと自分が食べたいものなど、ほんの少しだけデパ地下で調達すればOKだ。
これで年末年始の予算はざっと見積もって4万円あれば余裕。例年の3分の1程度で済んでしまう。

そんなわけで、今年もまたおせち料理を予約した。
なんだかんだ言っても、楽をしようと考えると、結局はおせち料理丸ごと買うのがベストということなのかもしれない。

毎年毎年、同じようなことで頭を捻っているけれど、落ち着く先は結局同じ「おせち料理を買う」という選択。
そしてまた、食べきれずに後悔することになるのかもしれないけれど、それでも一度決めてしまえば、年末まで悶々としないで済むのだ。

なにが「無駄」かと言えば、おせち料理代よりも、悶々と考える時間が一番無駄だったというオチなのであった。。。

本の中での物との出会い。

本を読んでいると、時折自分の好みにぴったりと合った「物」の描写に出くわすことがある。

一枚の布であったり、食器であったり、家具であったり、食べ物であったり、薬であったり、それは種類を問わない。

文字だけの描写のため、読みながらその姿を頭の中で想像する。そして「とっても素敵。。。」と所有欲がむくむくと湧き上がってくる。
しかし、想像はあくまでも想像だ。昭和の時代ならいざ知らず、令和の時代には手元でササッと現物を画像で確認できる術がある。すなわち小さなコンピューター、スマホである。

本を傍に置き、早速検索をかけてみると、その「物」がズラリと出てくる。
ご親切に販売サイトまで検索結果に出てくるのだから、便利な世の中になったものだと感心する。

ここで、「想像した物とは違う」「思ったほどよくはなかった」そんな風に思うことはごく稀で、画像を見た途端に、ますます興味がつのり、今度は自分の目で現物を見たくなる。
実際にそんなものを探し求め、実店舗まで足を運んで購入したこともある。

こうした物との出会いが、しばし本の中であるのは、きっとそれを書いた人とは、どこか似通った感性を持っているからかもしれない。
「この本を読んでみたい」そう思った時点で、趣味嗜好にどこか共通点があるのだ。



50を過ぎてから数年経ち、最近は「物」に対する考え方も変わってきた。
老後が視野に入ってきたことで、どんな物を持ちたいのか、どんな物であれば心地よく、なおかつ便利に暮らせるかなど、より吟味するようになった。

子供達二人が成人したことを機に、自分の持ち物、家族の持ち物の見直しを始めた。

これまで子供達に必要なものは、主に消耗品として割り切り、高価な物は買わないようにしていた。
例えば服なら、サイズの合ったものを季節ごとに新調し、まだ着られる物は下の子のお下がりにし、くたびれたものは処分というように、安価なファストファッション花盛りの経済循環の波に、そのまま乗ったような効率の良さを目的とした買い方をしていた。

自分の物も服に関しては、そんな買い方をしていたものもあるけれど、ほとんどは2シールも着ればお払い箱となった。

何十年と丁寧に手入れをしながら着ているものは、やはり縫製のしっかりした高価なものだ。

私がまだ10代、20代の頃は、洋服も安くはなかった。

そうした服の中には娘に譲り渡した物もある。
次女が今年、大学の入学式に着たのは、私が同じ年頃の頃に買ったワンピースだった。

丹後縮緬を使ったアイボリーと黒の不規則模様のワンピースで、全面にズラリと同じ丹後縮緬で覆われたボタンが並ぶ、Aラインのロングワンピースだった。

シルエットが美しく、今着ても古さはまったく感じない。

本当に気に入って手にした上質なものとは、そのように長きに渡り使えるものが多いということなのだろう。



本の中で出会い、購買欲が掻き立てられるものは、ほとんどそのようなものだ。

ネットに溢れる新商品といったものを見ても、不思議と心を揺さぶられることは少ない。

百貨店に行っても同じだ。食べるものは別として、ものに関しては若い頃のように「素敵!素敵!」と安易に持ち帰るようなことはしなくなった。

わかりやすく言えば、物欲がなくなったのだと思う。
50も過ぎれば、人の欲に際限がないことも知るようになる。飲んでも飲んでも癒されない乾きに右往左往することが無駄に思えるのだ。
「足るを知る」で、今あるもので十分に幸せな暮らしができる。

時に衝動買いしてしまうほどの物もあるけれど、本当に熱烈に気に入ったものに限る。

不思議なことに、本の中で出会うそうしたものは、熱烈に気に入ってしまうものが多いのだ。
趣味がストライクゾーンをついてくるからか、その作家の筆力か、よくわからないけれど、本の中で出会った末に購入し、後悔したり、使わずに放置されているようなものは一つもない。どれも大切に使い続けている。

百貨店へ足を運ぶよりも、ショッピングカタログを見るよりも、よほどよい買い物ができる。

問題はそんな「もの」がどんな本の中に潜んでいるのかがわからないということだ。
「おもしろそう」と、偶然手に取った本の中にひょんと現れるのだ。

そう考えると、ものとの出会いもご縁あってのことなのかと思わされる。
出会うべくして出会ったもの、我が物となる運命であったと。。。

かなり都合のよい考えであるけれど、そんなふうに思えば、よりそのものに対する愛着が深まる。

自分から「欲しい、欲しい」と手を伸ばさずとも、今の自分にとって必要なものは、自然とやってくるものなのだ。



余談だけれど、同じ作家のエッセイ本を数冊読んだ末、その作家さんのお宅が何処なのかわかってしまったことがある。
街の名前や駅名などから、我が家と同じエリアだと知ると、さてどのあたりかしら?と注意しながら読み、住まい近隣の描写から、これは「あの公園のことね」「あのお店はあそこだわ」と、割と簡単に目星がついてしまうのだ。
さらにはその住まいのつくりや色、設計に関することに言及していると、ピンポイントでわかってしまう。

わかったからといって、突撃してお宅訪問するわけではないけれど、前を通った時などは、「ここにあの作家先生がいるかもしれないのよね」などと思い出し、見上げたりはしている(笑)


他人事ながら個人情報が気になったのだけれど、お年を召した作家さんだったので、あまり気にもしないのかなとも考えた。
思えば昭和の時代は、個人情報云々と神経質になることもそれほどなかった。
学校の連絡網や卒業アルバムには、生徒の住所と電話番号が記されていたくらいだ。今の感覚からすればあり得ないことが、平気でされていた時代だったのだ。

なんとも自由でのんびりとした時代だったなと、昭和のよかったことばかりを思い出し、不便だったり、けしからんことは忘れてしまうのだから、人間とは全く都合よくできているものだ。。。
私だけだろうか????

ページを繰るたびに変わる文庫本のフォントに、また一つ学びを得た件。

暇な時はもっぱら韓流ドラマを観ているか、本を読んでいるか、ブログを書いているかの3択という生活を送っている。

ブログはほぼ毎日の日課となっているので、暇でなくてそうでなくても書くのだけれど、暇な時は書き溜めということもしたりする。

韓流ドラマに関しては、一つのドラマを一気に観たあとは、しばらくインターバルをおくことにしている。そうでもしないと、永遠に観続けてしまい、なにもせずに一日が終わってしまうという生活に陥る危険があるからだ。
ソファー+韓流ドラマという至福の組み合わせは、同時に肥満へ向かう最短距離ともいえる。
そんな時間を貪り続けた挙句、気づいた時には修正不可能なほどの贅肉に襲われている。。。そんな姿を想像すると、恐ろしくなり、少しはまともな生活をしようという気にもなるものだ。

そんなわけで、韓流ドラマに関しては、お休み期間を設けて、その間に買い置きした本を、これまた一気に読んでしまうことにしている。

仕事をしていたり、家事育児に忙しい主婦ならば、タイムリミットもあるだろうけれど、子供達も成人し、夫は単身赴任、おまけに無職である私には時間による縛りがまったくないのだ。

極端な話、毎日韓流ドラマだけを観て過ごそうと思えば、それもまた可能という身の上なのである。

それもまたいいものだとは思うけれど、人生はなにごともバランスが大切だと思っているので、一つのことに隔たるよりは、いくつかのことをうまくやる方が、充実感が味わえるのではと思っている。



昨夜、数日かけて観ていた1時間20話あるドラマを観終わったので、今日からは読書の日となった。

本屋へ行くと2、3冊の文庫本を買って帰ってくるので、未読の本が傍に積んである。その中から、その時の気分で一冊ずつ選んで読むのだ。

本はほとんどが文庫か新書である。若い頃から、それは変わらない。
文庫は小さくて軽いので、どこへ行くときでもバッグの中に入れておける。
家の中にいても、私はキッチン、ダイニングテーブル、リビングのソファーをぐるぐると移動するので、その際に持ち運ぶのに楽なのだ。
最近は鍋釜、バッグでさえも、軽いものしか使わないようにしているくらいなので、本などは軽くて小さいに越したことはない。

ちょっと前置きが長くなってしまったのだけれど、本題はここからだ。

今日読み始めたのは、先日買った文庫本で、軽く読めるエッセイだった。
内容は想定通り、面白いのだけれど、どうにも気になるのがそのフォント。。。

トップの写真を見てもらえればわかる人にはわかると思う。書体もフォントサイズも同じなのに、まるで見え方が違う。

まず、向かって左側の文字は通常の見慣れた文字だ。しかし右の方は、文字にインクが滲んだように、太くなっている。
この文字の違いはパッと見ただけでも、おかしいとわかる。

この違ったフォントが、ページをめくるごとに変わるのだ。

最初は私の視力の問題かと思った。かなりの近視の上、最近は飛蚊症などという老化現象まで現れているから、当然のことながら自分をまず疑ったのだ。

歳をとって、私も謙虚になったものだ。。。



しかし、どう見てもおかしい。確証を得るため、年若い娘にも見てもらったところ、やはり「これ、おかしい」との答え。
私の目はまだ大丈夫であった。。。

もしや、これが最近のトレンドか?と、一瞬思ったりもした。
見開きごとに、交互に文字が変わるのだから、もしやその方が読みやすいなどという、新たな研究結果により、新デザインへ移行中とか、もしくは本離れを食い止める新たな政策の一つか⁉︎

そう思い、他の本もペラペラとめくって確認してみた。
しかし、少なくとも私の手持ちの文庫本で、そのような本は一冊もなかった。
みんな写真、左側のように鮮明な文字が並んでいる。

本自体は新品でとても綺麗なのだけれど、とにかく文字だけがおかしいのだ。
しかし、読めないほどひどいものではない。実際にあっという間に読了したから、さして支障はないと言える。

わざわざ出版社に物申したり、書店に返品交換などを申し入れるほどのことでもない。そもそもそのように面倒なことはできない性分だ。

ただ、これまで数えきれないほど本を読んできたけれど、このような本と出会ったのははじめてのことで、悶々としてしまったのだった。

まるで万華鏡を覗いているかのように、目がチカチカ。。。とまでは言わないけれど、とにかくページをめくるたびに現れる太くなったり細くなったりする文字が気になって、正直内容に集中できなかった。

しかし、物事はポジティブに考えるに限るということで、何事も経験が学びになるものだと思うことにした。
次回から本を購入するときは、フォントをしっかりと確認して、目がチカチカしないものを選ぶようにしよう!
そう学んだのであった。。。