In other words

I really don't know life at all ...

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本の中での物との出会い。

本を読んでいると、時折自分の好みにぴったりと合った「物」の描写に出くわすことがある。

一枚の布であったり、食器であったり、家具であったり、食べ物であったり、薬であったり、それは種類を問わない。

文字だけの描写のため、読みながらその姿を頭の中で想像する。そして「とっても素敵。。。」と所有欲がむくむくと湧き上がってくる。
しかし、想像はあくまでも想像だ。昭和の時代ならいざ知らず、令和の時代には手元でササッと現物を画像で確認できる術がある。すなわち小さなコンピューター、スマホである。

本を傍に置き、早速検索をかけてみると、その「物」がズラリと出てくる。
ご親切に販売サイトまで検索結果に出てくるのだから、便利な世の中になったものだと感心する。

ここで、「想像した物とは違う」「思ったほどよくはなかった」そんな風に思うことはごく稀で、画像を見た途端に、ますます興味がつのり、今度は自分の目で現物を見たくなる。
実際にそんなものを探し求め、実店舗まで足を運んで購入したこともある。

こうした物との出会いが、しばし本の中であるのは、きっとそれを書いた人とは、どこか似通った感性を持っているからかもしれない。
「この本を読んでみたい」そう思った時点で、趣味嗜好にどこか共通点があるのだ。



50を過ぎてから数年経ち、最近は「物」に対する考え方も変わってきた。
老後が視野に入ってきたことで、どんな物を持ちたいのか、どんな物であれば心地よく、なおかつ便利に暮らせるかなど、より吟味するようになった。

子供達二人が成人したことを機に、自分の持ち物、家族の持ち物の見直しを始めた。

これまで子供達に必要なものは、主に消耗品として割り切り、高価な物は買わないようにしていた。
例えば服なら、サイズの合ったものを季節ごとに新調し、まだ着られる物は下の子のお下がりにし、くたびれたものは処分というように、安価なファストファッション花盛りの経済循環の波に、そのまま乗ったような効率の良さを目的とした買い方をしていた。

自分の物も服に関しては、そんな買い方をしていたものもあるけれど、ほとんどは2シールも着ればお払い箱となった。

何十年と丁寧に手入れをしながら着ているものは、やはり縫製のしっかりした高価なものだ。

私がまだ10代、20代の頃は、洋服も安くはなかった。

そうした服の中には娘に譲り渡した物もある。
次女が今年、大学の入学式に着たのは、私が同じ年頃の頃に買ったワンピースだった。

丹後縮緬を使ったアイボリーと黒の不規則模様のワンピースで、全面にズラリと同じ丹後縮緬で覆われたボタンが並ぶ、Aラインのロングワンピースだった。

シルエットが美しく、今着ても古さはまったく感じない。

本当に気に入って手にした上質なものとは、そのように長きに渡り使えるものが多いということなのだろう。



本の中で出会い、購買欲が掻き立てられるものは、ほとんどそのようなものだ。

ネットに溢れる新商品といったものを見ても、不思議と心を揺さぶられることは少ない。

百貨店に行っても同じだ。食べるものは別として、ものに関しては若い頃のように「素敵!素敵!」と安易に持ち帰るようなことはしなくなった。

わかりやすく言えば、物欲がなくなったのだと思う。
50も過ぎれば、人の欲に際限がないことも知るようになる。飲んでも飲んでも癒されない乾きに右往左往することが無駄に思えるのだ。
「足るを知る」で、今あるもので十分に幸せな暮らしができる。

時に衝動買いしてしまうほどの物もあるけれど、本当に熱烈に気に入ったものに限る。

不思議なことに、本の中で出会うそうしたものは、熱烈に気に入ってしまうものが多いのだ。
趣味がストライクゾーンをついてくるからか、その作家の筆力か、よくわからないけれど、本の中で出会った末に購入し、後悔したり、使わずに放置されているようなものは一つもない。どれも大切に使い続けている。

百貨店へ足を運ぶよりも、ショッピングカタログを見るよりも、よほどよい買い物ができる。

問題はそんな「もの」がどんな本の中に潜んでいるのかがわからないということだ。
「おもしろそう」と、偶然手に取った本の中にひょんと現れるのだ。

そう考えると、ものとの出会いもご縁あってのことなのかと思わされる。
出会うべくして出会ったもの、我が物となる運命であったと。。。

かなり都合のよい考えであるけれど、そんなふうに思えば、よりそのものに対する愛着が深まる。

自分から「欲しい、欲しい」と手を伸ばさずとも、今の自分にとって必要なものは、自然とやってくるものなのだ。



余談だけれど、同じ作家のエッセイ本を数冊読んだ末、その作家さんのお宅が何処なのかわかってしまったことがある。
街の名前や駅名などから、我が家と同じエリアだと知ると、さてどのあたりかしら?と注意しながら読み、住まい近隣の描写から、これは「あの公園のことね」「あのお店はあそこだわ」と、割と簡単に目星がついてしまうのだ。
さらにはその住まいのつくりや色、設計に関することに言及していると、ピンポイントでわかってしまう。

わかったからといって、突撃してお宅訪問するわけではないけれど、前を通った時などは、「ここにあの作家先生がいるかもしれないのよね」などと思い出し、見上げたりはしている(笑)


他人事ながら個人情報が気になったのだけれど、お年を召した作家さんだったので、あまり気にもしないのかなとも考えた。
思えば昭和の時代は、個人情報云々と神経質になることもそれほどなかった。
学校の連絡網や卒業アルバムには、生徒の住所と電話番号が記されていたくらいだ。今の感覚からすればあり得ないことが、平気でされていた時代だったのだ。

なんとも自由でのんびりとした時代だったなと、昭和のよかったことばかりを思い出し、不便だったり、けしからんことは忘れてしまうのだから、人間とは全く都合よくできているものだ。。。
私だけだろうか????