In other words

I really don't know life at all ...

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50代は人生の転換期。だからこそブログという趣味があってよかったと思う。

まだ若い頃、50代という年齢に対して、それほど関心はなかった。
世間では歳を重ねることは素敵なこととされているけれど、40代までは若さに対する執着も少しばかりは残っていたせいで、歳を重ねることを喜べずにいた。
実際に50代となった今でも、もちろん喜んではいないけれど、それなりにいいことも実感できたし、なによりも観念したので、もはや執着はない。ただ、羨ましいだけだ(笑)

40代までは私もまだ主婦として、家族のお世話に忙しくしていたので、50代というのはその延長線上にあると漠然と思っていた。
40代、50代は、「若くもなく、老人でもない年齢」という括りでたいした違いはないと思っていたのだ。

ところが、いざ自分が50代になってみると、40代とはまるで違った世界に足を踏み入れたことに気づき、ちょっとばかり驚愕している。

それはプラスのこともあればマイナスのこともある。

まずマイナス面からになってしまうけれど、身体の変化があげられる。
私の場合、50を過ぎてから更年期がやってきた。
それは大騒ぎするほど酷いものではないのだけれど、それでもさして原因もないのに体調が優れなかったり、訳のわからない不安に襲われたりと、鬱陶しさを感じるに十分な実感がある。

体力の低下も著しい。無理をして連日忙しくしていると、疲労感が常につき纏い、挙句の果てには石のように身体が動かなくなる。

そんな時期に乗じたようにやってきたコロナ禍。。。
度重なる自粛によって、外出の機会も激減し、仕事もしていない専業主婦の私は家にこもることが多くなった。
それまではウォーキングだ、ランチ会だ、ショッピングだと、連日歩き回っていたのが、途端に動かなくなったものだから、運動不足という事態に陥ったのだ。
おかげで少し動けば筋肉痛、同じ体勢でいると関節が痛み、体力低下はどんどん加速していった。

同じように以前に比べて運動不足を嘆くようになった娘達に聞いても、私の感じているような変化はないという。
やはり年齢によるものが大きいのだと思う。

最近はプランクという体幹を鍛える運動を始めたので、少し改善してきてはいるけれど、やはり40代の頃とは比べ物にならない。
自分の身体が一歩一歩、少しずつ老いに向かっているのがわかる。

老人がよく、あちらが痛い、こちらも痛いと言うけれど、その入口が50代なのだと知ったのだ。



身体的なことはマイナス面だけれど、悪いことばかりではない。
自分が歳をとれば、同じように子供達も成長する。

50代になり、子供達も二人とも成人した。もはや親がとやかくと世話を焼いたり、口を出したりする年齢ではなくなった。つまり、子育て卒業というわけだ。

子育てが終わっても、まだ「夫」という、もっとも手のかかる子供が残っていると思いきや、タイミングよく単身赴任となった。
夫も50を過ぎ、これからは自分の好きなことがしたいと思ったのだろう、やりたい仕事のために単身赴任生活を決断して東京を離れた。
月に一度、3日間ほど帰ってくるけれど、それ以外はまったくお世話をしなくてもよくなった。

これは神様からの贈り物か?と思うほど、幸運な出来事だ。

つまり、私は独身時代のように、自分のことだけをしていればよくなった。
40代の頃とは大違いの自由な毎日を獲得したのだ。

これが人生の転換期というものなのかもしれない。
時が経てば生活も変わる。それは当たり前のことなのだけれど、実際に自分が経験して、ようやく実感が湧いてきた。

棚からぼた餅とばかりに降ってわいたこの自由。最初はその解放感に酔いしれていたものだけれど、次第に持て余すようになってきた。



専業主婦のお仕事である家事も、まるで一人暮らしのように楽になった。子供の世話を焼く必要もなく、食事の献立に頭を悩ませたり、時間に追われたりすることもなく、全ては自分のペースで行動できる。
これまで家族のために使っていた数時間が、すべて自分のものになり、時間を気にせずに好きなことをして過ごせるようになったのだ。

それは喜ばしいことなのだけれど、不思議と焦りの気持ちが湧いてきた。

退屈するということではない。時間があればお友達と会ったり、一人でぶらり買い物や映画にいったり、出かけなくても本を読んだり韓流ドラマを観たりと、やりたいことはたくさんある。
ただ、こんなふうに生産的ではない暮らしをしていていいのだろうかという焦りが出てきたのだ。

こんな場合、普通なら仕事でもしてみようかという気になるのかもしれない。やり甲斐とお金、二つが同時に手に入れば一石二鳥である。
しかし、私は仕事をするつもりはない。もう何年も前にそう決めたのだ。

私にとって仕事をするということは、若い頃から変わらずお金のために他ならない。
確かに仕事をしていれば達成感やそれ以外の楽しみもあるけれど、それと同じくらい大変なこともある。
それでも働いていたのはお金のためだ。自分のしたいことを叶えるため、ちょっとした贅沢を求めて、お金を作ることに楽しみを見出していたのだ。
時代もよかった。今のように経済が停滞していては、どんなに働いても虚しさを覚えただろうけれど、昭和の時代は働けば働いただけ懐が潤ったのだ。

若い頃というのは、煌びやかな暮らしに憧れるものだ。我が家の二人の子供達を見ていても、呆れるばかりの物欲を持って消費行動に精を出している。
昔の自分をそのまま見ているようだ。



しかし今はもうそんな欲もすっかりなくなった。
歳を重ね50代となってからは、欲が自分自身を輝かせてくれるものではなくなったのだ。
素敵な服を着ても似合わなくなり、ヒールの高い靴を履けば足が疲れて歩けなくなる。ブランド物の革バッグは重たく、肩に負担がかかる。
美容に関しても、白髪を染めるために美容院通いをしているようなものだ。
以前は銀座の少しお高い美容院へ通っていたけれど、投資したぶん見返りが期待できないのがわかった。それは美容院の問題ではなく、私が歳をとったせいなのだ。どんなにお金をかけようとも加齢を救うことはできない。
今はもっと気楽なサロンに変えた。そのおかげで美容院代は半分になり、とても満足している。

今年は数年ぶりに新しいコートとバッグを新調した。それも「欲しい」からではなく必要になったからだ。
シンプルなデザインで素材がよく、縫製さえしっかりしていれば、服は長く着られる。しかし10年以上となれば年齢にそぐわないものも出てくるし、ちょつとくたびれてくるものもある。
そんな服を断捨離したために、着る物がなくなってしまったのだ。
そこで新しい服を買ったのだけれど、それすらこれから少なくとも10年は着続けるものだ。



正直、突然降って湧いたように与えられた自由を持て余していると言ってもいい。
そのせいで、ブログばかり書きたくなる(笑)

それはブログを書くことで、生産的な暮らしをしていると、思えるからなのだと思う。
社会的な生産性はないとしても、自分を満足させるに、ブログは十分な効果がある。
別にやらなければいけないことではないのだけれど、毎日更新を縛りとしているブログもあるので、まるで仕事のように毎日一定の時間はブログに時間を割いている。

人生の転換期というのは、一生に一度のことではない。これから先も自分の生活が変わる時というのもに出会うだろう。
それでも、私のように平凡に生きていれば、これ以上忙しくなることも、暇になることもなく、変わらず暮らしているのだろうと想像できる。

10年後、もしもブログよりも熱中できる趣味でも見つけない限りは、変わらずブログを書いていることだろう。

元々無趣味で、いまでもこれといった趣味はない。お菓子を食べること以外は、毎日やりたいと思うのはブログくらいのものだ。
人生の一つの転換期を迎えたいま、ブログという自己満足があって良かったと、つくつぐ思ったのだった。。。

不安症、心配性は更年期の影響か。解決法を模索した結果たどり着いた結論。

最近、異常なほどに心配になったり、強い不安に襲われることが増えた。
例えば、外出する際に火の元や施錠など、十分に確認しているにも関わらず、家を出た後に心配になったり、就寝前に離れて暮らす子供や夫は大丈夫かと不安になったり、とにかくこれまでとは違って、心がわさわさとするのだ。

これまでそんなことは全くなかった。夏を過ぎた頃から急に、過剰な心配や不安に襲われるようになったのだ。
最初は気づかずに心配したり不安になっているだけだったのだけれど、ある時ふと「この過剰な心配は少し異常ではないのか?」と思った。

なぜそうなったのか、いつもの如くGoogleに聞いてみた。
たくさんの情報の中から、もっとも当てはまったのが「更年期症状」の一つだというもの。

ホルモンのバランスが崩れることによって、身体だけでなくメンタルにも影響があるのはよく言われることだけれど、心配や不安といった症状もよくあるものだという。

身体的な更年期症状は自覚していて、こればかりは仕方がないと楽観していたけれど、心配性、不安症に関しては、更年期が治るのを待つのは辛すぎる。

どうにかならぬものかと、またGoogleに尋ねてみた。



簡単にできる解決法の一つとして、気分転換というのがあった。昼間なら散歩やお買い物に出ればいいのだけれど、就寝前ではそうもいかない。
そこで目をつけたのが、好きな音楽や動画で気持ちを切り替えるというものだ。

早速、お布団に入った後、Instagramなどで美味しそうなお菓子を眺めたり、YouTubeで興味のある動画などを観るようにしてみた。

結果、これはなかなか効果的だった。不安だった気持ちが逸らされて、明るいイメージが頭の中に広がり、不安が薄らいだのだ。
時には昭和の頃に流行った歌などを口ずさんでみたり(時に熱唱)、心配や不安とは違ったノスタルジーに浸って眠りにつくようになった。

それまでは布団の中にまでスマホを持ち込むようなことはなかったのだけれど、就寝前にYouTubeで動画を観ることが、すっかり習慣となった。

そんな時、お友達から興味深い話を聞いた。
それはスマホの使いすぎによってアルツハイマーのような症状をきたす可能性があるというもので、就寝前までスマホを観ているのは要注意だというのだ。

重要ではない雑多な情報が脳に蓄積されることにより、情報処理能力が正常に機能しなくなり、物忘れや集中力が落ちるというものらしい。

必要ではないゴミのような膨大な情報に邪魔され、正確な判断などができなくなるということなのだろう。

直接は私の抱えている心配、不安症とは結びつかないかもしれないのだけれど、この話は、また別の不安をもたらしたのだ。

困った。。。
スマホによって心配や不安感を払拭できたと思っていたのに、それが他方では新たなリスクとなる可能性があるというのだから。。。

歳をとるというのは、悲しいものだ。
鉄のメンタルと言われてきた自分が、これほどまでに弱くなるのだから。



これは就寝前のスマホもほどほどにした方がよさそうだと思い始めたとき、たまたまハードな一日を過ごしとても疲れてしまった日があった。
YouTubeなど観る暇があればすぐに眠りたい。。。そう思うほど疲れていた。

その夜はなんの心配も不安も感じることなく、ただ眠りたいという気持ちだけだった。
そこで思ったのは、結局いまは暇すぎるのではないか?ということだった。
少し投げやりなアイデアだなと思いながらも、理解できないことこそシンプルに考えるのが解決の道というのはこれまでの経験からも確かなことだった。
投げやりというのもまた、自分の心を守るために有効というケースもある。

暇すぎるから余計なことに頭を支配されると思えば、話はぐっと簡単になる。
毎日目の前にやる事が山ほどあり、それをどう消化しようという状況であれば、心配などしている暇はない。次へ次へと進んでいくことのみを考える。

自ずと解決策は見えた。
とにかく遊びでもなんでも予定をいっぱいにして、忙しくしていればいいのだ。ちょうどコロナ禍の前のように。そうすれば余計な心配や不安など入り込む隙もないほど疲れることだろう。

しかし、50を超えた中年にとって、ことはそれほど単純ではないことを思い出した。。。
忙しくすれば気力に体力が追いつかず、自覚なしに疲労を蓄積し、どっと蕁麻疹が出たりする。ゆっくりと過ごしていれば、改善するのだから、やはり疲労が原因なのだろう。
ゆっくり過ごしていると心配や不安に悩まされ、忙しくしたらしたで身体に影響が出てくる。。。

一体どうしたらいいのだろうか。

多くの人が更年期症状に悩まされ、日常生活にも支障をきたすというけれど、それも納得だ。

更年期とは一般的に閉経を挟んだ前後5年の10年間と言われている。
まだまだ先は長い。。。

きっと病院へ行けば、それなりの治療法というものがあるのだろうけれど、薬には頼りたくない。
どうにか上手い落とし所を見つけなければと思うけれど、結局のところ自分の心の問題だ。
自分で決着をつけたいのなら、疲れない程度に忙しくも充実した日々を送り、「更年期なんてなにさ!」と、それが去るのを待つしかないと思うのだった。

50代は貯めどき。健康維持と貯蓄、老後の不安に備えた一挙両得の試み。

少し前に現在住んでいるマンションの更新があった。
その際、1ヶ月分の更新料を納めるのだけれど、都心ゆえに賃料も高い。
2年おきに更新料という名の事務手数料を何十万も払うことに、面白くない気持ちにもなるけれど、こればかりは仕方がない。
税金と同じで、払わなければいけないものは、さっさと払ってしまうに限る。

50代になってもなお、マイホームを買うこともせず、賃貸暮らしをしているのは、ただ単に買いたくないからだ。

持ち家の場合、よほどのことでもない限りは、そこが終の住処となるのだと思うけれど、私は若い頃からその時々のライフスタイルに合わせて、住む場所を変えたいと思っていた。

今は便利さをお金で買うと考えて、都心で暮らしているけれど、きっともう少し歳をとれば、この環境も必要としなくなるだろう。

まだ次女が独立していないので、当面はこの都心暮らしを続けて行くだろうけれど、次女が家を出たら、きっとまた別のところへ行くのだと思う。

同じ都心部でも、もっと小さなマンションに移るか、もう少し静かな環境を求めて、地方にでも行くか。。。
この自由に動けるという気楽さは、マイホームを持つことよりも私にとっては優先順位が高いのだ。

そんな遊牧民のような暮らしを夢見るとき、やはり先立つものはお金である。
お金さえあれば、自由に好きなところで、好きなことをして暮らしていける。
持ち家ではないからこそ、老後のための貯えも十分でなければいけない。

人生100年と言われるいま、老後資金に2000万円必要だという話がずいぶん前に話題になったものだけれど、賃貸暮らしではそれも心許ない。

最近読んだ本によると、年金プラス5000万円はないと、普通に暮らすのは難しいという話だ。
確かに65歳から、例えば30年生きるとすると、2000万円では月にたったの5万円だ。これではワンルームすら借りることはできない(東京では)。



マンションの更新料だけではない。
大学生の娘2人分の授業料、それぞれ半期分を先月の末に支払った。
マンションの更新料も含め、すべて合わせてざっと150万近くが一気に出て行った。。。

150万を貯めるのは大変だけれど、出て行くのはあっという間で、貯金通帳を眺めては、思わず漏れる溜息。

それでも、長女の学費はこれが最後。まだ次女は大学1年生と先は長いけれど、私学の長女に比べ、次女は国立なので、学費もグッと軽減される。

これから、第二の貯めどき到来だ。
夫が定年するまで、あと15年はある。この15年でしっかり貯蓄を増やして、豊かな老後を送ろうと、気持ちを切り替えることにした。
これまで何度も「切り替える」と意気込んでいたものの、老後の不安もどこか漠然としていたせいか、喉元過ぎれば今日まで来てしまった。。。
しかし、もうそんな悠長な考えではいけないと、今度こそ本気で気持ちを切り替えなければと思っている。

そんな前向きな気持ちに水をさすように流れてくるのが、値上げのニュース。

先月だったか、電気料金を見てビックリした。4人暮らしから2人に変わったので、多少は電気料金が軽減されるかと思いきや、むしろ以前よりも高くなっている。
終日エアコンをつけていなければ凌げないほど暑い時期だったので、一年で最も電気料金が嵩む月だ。それは想定内であったのだけれど、あまりの高さに驚いたのだった。

電気料金のみならず、食品関係も軒並みの値上げ。スーパーへ行くたびに、これだけしか買っていないのに、こんなにかかる?と、レシートを確認したこと数知れず。。。
趣味のお菓子にしても、昨今は日々のおやつとするには贅沢な価格となってきている。

もう何もかもが、高くなったと感じる。

趣味や贅沢品は我慢すれば済むけれど、光熱費や食費は人間らしく暮らすためには、必要不可欠なもので、多少の節約はできたとしても、それに追い討ちをかけるように値上げ、値上げでは、もうどうしようもない。

貯めどきどころか、これまで子供の教育費に回っていたお金は、極端な話、そのまま生活に取って代わる可能性があるのだ。



いまは贅沢をしなければ十分に食べるには困らないけれど、一体いくらあれば安心な老後が送れるのか、わからなくなってきた。

子育ても終え、家事育児の負担もない。一日のほとんどは自由に過ごせる時間なので、仕事をするという選択肢もある。
ただ、それは今のところ考えていない。

さすがに好きなことができないというくらいに困窮したら、すぐにでも働く用意はあるけれど、毎日美味しいご飯が食べられるうちは今のままでいたい。

昨今では老若男女問わず、働けという風潮になっている。
「生きがい」「女性も輝く社会」そんな言葉に置き換えられているけれど、仕事以外でも生きがいや輝ける場所は見つけられる。
天邪鬼な私からすれば、全国民から少しでも多くの税金を徴収したいという思惑が裏に隠されていると思ってしまう。
綺麗な言葉で人をその気にさせて、裏では頭のいい官僚達がニヤニヤとしているのではないか?と考えてしまうのだ。

日本では累進課税が採用されている。つまりは稼げば稼ぐほど、ごっそり持っていかれるという仕組みだ。
夫の給料明細を見るたびに、頑張って働いて収入を上げても、それと同じくして年貢が重くなるのなら、何のために頑張っているのやら?と思う。
私が働いて収入を得れば、さらに税金は重たくなる。

50をとうに過ぎた私が、気力体力を消耗しながら働き、さらに増税となったら輝くどころではなくなる。

私にも働きたいと思っていた時期があった。試しに半年間の短期契約でパートタイマーとして働いたこともあったけれど、とても大変だった。。。
仕事以外の時間は家事・育児に追われ、たとえ自由な時間が得られても、疲れ切って何もする気が起きなかった。
フルタイムで働いてるママさん達は、本当にすごいなと思うけれど、私には無理だった。。。

夫にとっても、これまで私に丸投げしていた家事・育児の手伝いをしなければいけないのは大変だったようで、仕事を辞めた時は大層喜んだものだ。
仕事に全集中する環境は、夫にとって必要だったのだ。

「もう仕事などせず、家のことをしながら、ゆっくり過ごしたらいい」

自分の好きなことさえできない生活、健康不安などによって、すっかり仕事がしたいという気持ちも萎んでいた私は、素直に専業主婦に戻ったのだった。



仕事をしていないのだから収入はない。あるのは5年ほど書き続けているブログから得られる収益くらいのものだ。
収入と言えるほどではないけれど、趣味のお菓子を買ったり、年に一度や二度、一人でぶらり旅へ出る程度のお金はそれで賄える。

本来ならそれを貯金に回せばいいのだろうけれど、生活の中で人並みの楽しみを見出そうと思えば、専業主婦とてお小遣いは必要だ。

老後の蓄えはやはり夫からいただくお給料からというのが、我が家にとっては現実的だ。
毎月、夫からいただく生活費も、以前はきれいさっぱり使い切っていたけれど、ここ数年は物欲も消え、使い切ることはなくなった。
人間とは不思議なもので、貯金通帳に記録される数字が増えると、それに楽しみを見い出すようになる。貯金することが目的ではなく、その数字が増えていく様に楽しみや喜びを感じることが目的になるのだ。

へそくりを増やしていく楽しみを得てからは、積立てNISAも始めた。非課税となる¥33,000満額、毎月積み立てている。

それでも私自身の貯蓄は遠く5,000万円には及ばない。
我が家は夫婦共々お互いの資産を知らない。あえて尋ねることもしないので、夫がいくら隠し持っているのか、一銭も隠し持っていないのか、まったくわからない。
夫も私の懐事情は知らない。結婚前に買った不動産、親から譲り受けた美術品等、全く把握していないようなのだ。
別に内緒にしているわけではない。世間話の折に何度か話したことはあるはずなのだけれど、ちゃんと聞いていないのか、興味がないのか、それに対して言及することはない。
つまりは、お互いの資産状況を知らなくていいということなのだと思う。

専業主婦はリスキーだと言われている。離婚したら収入が絶たれるのだから、それも当然だ。
特に我が家の夫は外国人なので、時に冷酷とも思えるような考えを持っている。
これは若い頃から肝に銘じていことなのだけれど、この歳になると余計に油断はならないと思うようになっている。

やはり先立つものはお金なのだ。
健康な身体とお金さえあれば、どう転ぼうとも怖くはない。



子育てに不相応なばかりにお金をかけたせいで、私の虎の子もかなり目減りした。
夫婦でも子育てに対する考えは違う。夫が「これは無駄」と切り捨てれば、諦めるしかない。しかし私は子供達がどうしてもやりたいと思うことには投資してあげたいと思っていた。
夫に口出しさせない唯一の方法は、夫のお金を遣わないということだった。
結局、夫の賛成が得られないケースでは、私が自分の貯金から賄ってきた。
「あのお金さえとっておけば。。。」
そう思わないこともないけれど、いま自分の好きな道を歩んでいる子供達を見ていると、あれは必要な投資であったと思える。
そんな子育ても、そろそろ終わりを迎えようとしている。

ようやく教育費が一段落したいま、ようやく自分のための貯蓄に励む時が来たのだ。

物欲はないけれど、これまで趣味のお菓子にはかなり散財してきた。最近は年齢のせいか、お金よりもまず胃袋が追いつかなくなっている。
コロナ禍で運動不足となったのにも関わらず、お菓子を食べ続けた末、贅肉も増えた。なによりも成人病にでもなったらという不安がある。

最近は健康を危惧して、お菓子も控えめにするようにしている。そのおかげで出費もかなり減っている。
健康維持と貯蓄、まさに一挙両得だ。

健康で長生き、そして経済的な不安のない老後を目指し、今度こそ頑張っていこうと思うのであった。