In other words

I really don't know life at all ...

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その店の世界観が苦手で仕方ないのに、作るものはたまらなく好きという矛盾。

ものすごく好きなお菓子がある。
そう頻繁には出会えないのだけれど、見つけたらありったけ買って、なくなるまで毎日少しずつ楽しむ。

とくにオリジナリティ溢れているというのでもなく、もしかしたら東京に無数にあるお菓子屋さんの中には同じようなものはあるかもしれない。

特別な材料で作られた希少なお菓子というでもない。ちょっとお菓子作りが得意な人であれば、味の方はともかく家にあるもので作れてしまうようなグリーディエンスのものだ。

強いていうなら、ビジュアル的にはかなりセンスがいい。シンプルながらお洒落な印象で、こだわりのある個性派の若い女性なんかが喜びそうな雰囲気がある。

しかし、私にとってはそこがちょっと問題だったりする。
その店は店主のこだわりが強い。自分の好きな世界の中で創作しているのが見てとれる。それはただのこだわりではなく、自分の生活を根こそぎ変えてでもというほどのこだわりだ。

それゆえに、時に手に入れることが難しかったりする。勝手な心配をするならば、ビジネスとして成り立つのかしら?というくらいのこだわりに見えるが、それは心配なさそうだ。そこは店主の世界観に共感した人との強い結びつきによって相互扶助的なビジネス関係があるようだから。

自分の好きな世界だけで生きている人は幸せそうだ。人間だからそれは生きていればいろいろあるだろう。
しかし、同じ世界観を持つ人とその世界の中だけで生きている姿は、やはり幸せなのだろうなと思う。

アイボリーの真綿に寝転び、入道雲を眺めながら、世間の喧騒とはまるで無関係な場所にいるような、ある種のコミ ューンでのみ生きているように見える。

私は正直言えば、その店主のこだわりや世界観が苦手だ。
そしてビジネスパートナーもその店のファンともいえる典型的な人達も、全てが苦手だ。

素敵だとは思うけれど、共感できない。

それなのに、困ったことに私はそこのお菓子がとても好きなのだ。
どこが好きかと言えば、その味も形も匂いも、お菓子としての存在が好きだと言える。



今はお菓子に限らず野菜でも果物でもお肉でもお米でも、消費者は作り手の顔を見れば安心するとばかりに、作り手がこだわりの品々とともに姿を見せることも珍しくない。

それ自体はどちらでもいい。顔が見えても見えなくても、その物がよければそれでいい。

ただ、あまりにこだわりが強いと、なぜかその世界観まで受け入れなければいけないような気持ちになってくる。

本当は苦手なのに、そのお菓子だけが好きという気持ちは受け入れられないのでは?などと、自分で勝手に思ってしまうのだ。

その店のお菓子を買う時に、それを強く感じる。
そのお菓子を売る人もまた、その世界観に強く共鳴し、お菓子のことよりも背景の話しを好む。
どんな場所でどんな思いで作られたものか。そこにどんな願いがあるか。。。

私は俗物的な人間だから、それは知らないくてもいいことだ。むしろどんな材料が使われているか、賞味期限だとか、なぜそんな値段設定になるのか、そんなことの方に興味がある。

しかし、それは決して口にできない。


その店を後にする時、いつも思う。
本当なら私などが食べるようなお菓子ではないのかもしれないと。。。
もっともっと全てを理解して、店主の世界に寄り添えるような消費者でなければいけないのではないか。。。

必ずしも客が店を選ぶことばかりでない。店が客を選ぶこともある。
もしも、その店主が自分のこだわりだけでそのお菓子を作り続けているのだとしたら、私のような客は客として認めたくはないだろう。

そう思うと、ちょっと申し訳ない気持ちにもなる。

苦手だと感じるのはもしかしたら羨望の裏返しなのかもとも思わないでもない。

何百年と続く和菓子屋さん何代目ともなれば、自分とはまるで別世界の人という安心感を持つことができるけれども、自分一人で求める世界を作り上げている人を前にすると、自分でもできることを放棄して生きてきたように感じさせられる。

その店主の描く世界観が自分の好みではないというのは明らかなのだけれど、もっと掘り下げてみれば、そこには羨望や嫉妬という気持ちが隠れているのかも知れない。。。



ブランド品はもういらない。今の自分が生きる上で必要なもの。

少し前、同年輩の方が書いてるブログで、掃除中に懐かしい物が出てきたという記事を読ませていただいた。
そこにあったブランド物のスカーフが写った写真を見て、とても懐かしい気持ちになった。

アラフィフの我々年代はまさにブランド最盛期だった。誰も彼もがVUITTONだ、GUCCIだ、Diorだと、むしろブランド品を身につけていない人の方が少なかったのではないかというほどだった。
私もよく、今は亡き父におねだりしては買ってもらっていた。

今振り返ると、あの熱はなんであったのだろうかと思う。
若さゆえに「物」よりも「ブランド」にとらわれて、それを持つことによって自尊心を満足させていたのかもしれない。

しかし、そんなブランドへの熱も歳を経るごとに冷め、いつの間にか大した意味を持たないものになっていったようだった。

特に40代半ばで大病を経験したのを機に、そうしたマテリアルに対する関心はさらに薄れていった。大袈裟に言えば人生観が変わったのだと思う。

同じお金を出すのなら、旅をしたり、美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントを買ったりした方が気持ちいい。

手に入れたときの刹那の喜びよりも、心に残る幸福感の方に価値を見出すようになったのだ。




そう思う一方で、それなりのお金を出して買ったものは、何十年経っても状態の良いものが多い。つまり上質であるのが長年所有しているとわかる。
今思えば、父が買ってくれたブランドの品々は、長きに渡って使えるようなものばかりだったから、きっと大人にはわかっていたことなのだろう。

若い頃に買ったブランド品は、劣化が見えるものは処分したものの、いくら使わないからといって、何十万も出して手に入れたもの、ましてやまだ綺麗なものまで断捨離する勇気はない。かといって、とっておいても使うこともない。

そこで大学生の長女に「これいる?」と聞いてみたところ、大喜びして全て欲しいという。
デザインも今のものとは違っているから、てっきりお古など要らないと言うかと思いきや、全て自室へ引き取っていった。

若い子にとっては、古くてもなんでもブランドというだけで価値があるだなと思った。

とくに今はブランド品の価格が当時に比べてかなり高くなっている。たまに百貨店などで目にするのだけれど、あまりの高額にビックリすることがあるくらいだ。
これでは若い子たちにはなかなか手に入れるのは大変だろうなと思う。

まぁ、そもそもは若い子が持つようなものではないのだけれど。。。
昔、ヨーロッパで暮らしていた頃、パリやロンドンで日本でそうしていたように、当たり前の顔をしてブランドショップへ入ると、店員さんから冷たい一瞥を投げかけられるなどということがよくあった。

日本人の成金娘が何をしにきたの?

そんな心の声が聞こえるようだった。

確かにヨーロッパでブランド品を身につけているのは、それなりの年齢のマダム達だ。若い子ならセレブなお嬢様といった具合で、庶民の若い子がブランド物を持っていることは普通ではなかった。

そんなことを経験してからは、さすがにブランド品にこだわるようなことはなくなったけれど、日本にいればまた抵抗もなくなる。

しかし、今は大金を払ってまでも欲しいとは思わない。ブランド品に限らずいつの頃からか、物欲そのものがなくなった。
皮肉なものだ。それを持つにふさわしい年齢になったときには、自分には必要のないものとなっているのだから。。。

そうはいっても、この年齢になると、さすがにそれなりの場に行く時はそれなりのものを身につける必要がある。

なんだかんだ言っても、人は見た目で判断される。たかが見た目で、得られるものが変わるのも経験からわかっている。

とりあえず腕時計と靴さえ良いものを身につけていれば、それなりに見えるので、その辺りだけは気をつけるようにはしている。
そこでちょっと見栄えのする指輪などがあればなおいい。よくおばさんが大きな指輪をしているのを見るけれど、あれは手の老化を隠すことの目眩しという役割があるのだ。
大きな宝石に視線を集め、シワやシミの浮き出たおばさんの「手」を隠すためのアイテムになるのだ。

腕時計は定番デザインの良い物を買えば、半永久的に使用できる。時計によってはオーバーホールついでにパーツ交換でデザインを少し変えることも可能だ。

私は30年来、3本の時計を未だに使いまわしている。現在でも販売されている定番デザインに加え、きちんとオーバーホールしているので、それが古い物だと気づく人もいない。

靴も時計ほどではないけれど、きちんと日々手入れをしたり、お直しに出したりすれば、長く使用することができる。

ブランドかどうかではなく、質の良い物は長い目で見れば非常にコスパがいいともいえるのだけれど、そういったものがブランド物に多いのも否めない。

そうしたことからブランド品が悪い物だとは決して思わない。若い子がブランド品のバッグが欲しいとバイトを頑張るのも愚かなことだとは思わない。
むしろ、自分の欲しい物を手に入れようと行動するその行為は素晴らしいとさえ思う。
手に入れたい物があれば、なんとしてでも手に入れる。そんな気概こそ若い人にはあって欲しいものだ。

我が家の娘もバイト代はそうしたものに消えていっているけれど、私はそれでいいと思っている。
堅実な親であれば、少しは貯金しなさいとでも言うのだと思うけれど、私は贅沢を知ることも必要だと思っている。

部屋にズラリと並ぶブランドコスメ、バスルームには彼女専用のヘアケアグッズ、どれも「あー、こんなのにお金遣ってもったいない」と思うようなものばかり(笑)

それでも、女の子が一番美しい時に、思い切り身を飾るのは、まさにその時にしかできないことだ。
50を過ぎてからやっても、美容効果が劣化スピードに負けて惨めになるだけ。

若さというのはその時だけのもの。歳を取ればどんなにお金をかけようが手間をかけようが、若い子のような美しさは手に入らない。

きっと私が「もう欲しくない」と思うようなものは、今の自分には必要のなくなったものなのだろう。

ブランド品もその一つで、高価なものを所有するよりも、残り半分の人生でより楽しく幸せな日々を過ごすことの方が必要な時期に来たのだと思う。

私はミニマリストではないけれど、「物」は快適に暮らせる程度にあればそれでいい。
高価なものを所有し、人から羨望の眼差しを向けられたところで、多少の自己満足が得られる程度のことだ。
それよりも自身の健康や、食生活などそれに関連すること、また自分も含め周りの大切な人達を喜ばせることにお金を遣いたい。

今回の新型コロナによる自粛生活で、さらにそんな思いは強くなった。
しっかり食べて、しっかり睡眠をとって、適度に体を動かして、あとはのんびり暮らす。それでも十分に幸せだ。

生きる上で必要なものは、それほど多くはないということなのかもしれない。




新型コロナが去った後の未来を想像し、今ある暮らしを見つめ直すことにした。

最近、我が家の夫は帰宅後も頻繁に社用の携帯電話を握っていて、何やら忙しそうだ。
これまでは家に帰ってきてまでも仕事の話などしたくないと言っていたのに、今はいそいそと電話をとり、その度にリビングから出て行き、別の部屋でなにやら深刻に話をしている。

コロナのストレスから浮気にでも走っているのかもしれない!
と勘ぐる我が家の女3人。。。
しかし、実際はそんな悠長なことをやっていられる場合ではないらしい。
「お前たち、自粛でよほど暇なんだな!」とお叱りを受けた。

昼間はこれまで通り出社しているのだから、会社で済ませられないの?と言うと、電話をしてくる相手は社内の人間ばかりではないという。

リビングでは暇な子供達がいい歳して大騒ぎ。突然ラップバトルなどを始めるものだから、深刻な電話などできるわけもないというわけで、別室へ避難しているそうだ。

電話の用件はどれも同じ。

あなたのところにいいポストが空いていないか?

どこかいい仕事があれば紹介してはくれないか?

最近子供が産まれたのに給料半減で困っている。転職したいんだけどどこか知らない?

そんな話ばかりだという。

外国人といえども20代で初めて来日。その後出たり入ったりしながらも、なんだかんだ20年は日本で暮らしている。アラフィフとなった現在では、それなりに人脈もあり、加えて元来のおばさん気質とでもいうのか、無類の世話好きのためか、頼ってくる人も多いのだ。

ここで一つ。他人から頼られる人の多くは、家族にとっては頼れない存在だ。博愛主義が過ぎて身内は後回しになる傾向がある。
時にイラつくこともあるけれど、結局そんな性格のおかげで仕事の方はうまくいっているのだと思う。私や子供達はなんの心配もなく暮らせるのだから、多少の我慢は必要だと納得するしかない。
私達のことはいいから、どうか人様の役に立って、しっかり稼いできてちょうだいといったところだ。

さて、それはいいとして、東京も緊急事態宣言がまもなく解除されるだろうという段階にきたものの、人々の危機感までは完全に払拭されたわけではない。
今後も更に大きな影響を及ぼすと懸念されている新型コロナに先行きの不安を覚え、多くの人が求職活動をしているという事実。

仕事を探しているということは、これまで働いていた職場から解雇されたということかと思いきや、そんなケースばかりではないという。給料の大幅カット、ボーナスの支給なしといった事態目前で、ダメージを受ける前に少しでも安全な場所へ向かおうという動きもあるという。

SNSなどでは未だに国からの休業補償を訴える声を目にするけれど、当事者ではないからか想像はできても実感までは正直なかった。

「これはまだまだ始まり。業種に限らずこれからもっとそうした人が増えるはずだよ」

夫は言う。





コロナが去った後の世界が、そして日本がどうなってしまうのか、私にはまったく想像がつかない。
今はよくても逆に悪くても、物事は常に変化していく。
(悪くなる想像はできても、良くなるとは思えないが。。。)

その波に飲み込まれずに、うまく乗りこなすには、いま何をするべきか。。。
他人の心配をしている場合ではない。いつ何時、誰が同じような状況に陥るかわからない事態だ。
新型コロナの影響はリーマンショック以上の緊急事態だとも言われている。

自粛だ!と時間を無駄にしていないで、少し先の未来を想像して、いま何をすべきか考えておくべきなのだ。

と、声を大にして威勢よく言いたいところだけれど、50も過ぎればこれから新しいことを始めようという気にはなかなかなれるものではない。
これが30代くらいであったら、あれやこれや知恵を絞って今後の生活の保険となるようなことを始めてみようかと思うけれど、もうそんな体力も気力もない。

ただ、普通に屋根のあるところで眠れて、お腹いっぱいご飯が食べられるという、人並みの生活ができれば十分だ。
バブル期の恩恵を存分に受けたせいか、もう贅沢な生活に対する憧れもない。
心身共に健康で穏やかに暮らせればそれでいい。

そうなると、なにか新しく始めるというよりは、今ある生活を縮小することしかない。
住む場所を変え、支出を控え、質素な生活を今からシュミレーションしておくのだ。

我が家は現在大学生と高校生の子供がいる。高校生も来年には大学生になる(合格すればだけど。。。)。
5年以内に今の生活をガラリと変えることも可能になる。

まだ終の住処を日本に定めたわけではない。希望としてはずっと日本でとは思っているけれど、こればかりはどうなるかわからない。
普通の暮らしができないとなれば、よりよい場所へ行くことになるだろう。

いずれにしても、経済的な安定は不可欠だ。「お金など欲しければ稼げばいいだけ」などという傲慢なことは、この歳になるとさすがに言えない。

不本意だけれど、お金を遣う生活から、遣わない生活にシフトしていくべき時期だと思っている。
稼ぐのは若い方々に任せて、自分がいよいよ年寄りの仲間入りしたことを認め、質素な生活を心がけること。

そんな方向でコロナ以降の生活を考え直していこうと思っている。

なんだか悲しいけれど。。。