少し前、同年輩の方が書いてるブログで、掃除中に懐かしい物が出てきたという記事を読ませていただいた。
そこにあったブランド物のスカーフが写った写真を見て、とても懐かしい気持ちになった。
アラフィフの我々年代はまさにブランド最盛期だった。誰も彼もがVUITTONだ、GUCCIだ、Diorだと、むしろブランド品を身につけていない人の方が少なかったのではないかというほどだった。
私もよく、今は亡き父におねだりしては買ってもらっていた。
今振り返ると、あの熱はなんであったのだろうかと思う。
若さゆえに「物」よりも「ブランド」にとらわれて、それを持つことによって自尊心を満足させていたのかもしれない。
しかし、そんなブランドへの熱も歳を経るごとに冷め、いつの間にか大した意味を持たないものになっていったようだった。
特に40代半ばで大病を経験したのを機に、そうしたマテリアルに対する関心はさらに薄れていった。大袈裟に言えば人生観が変わったのだと思う。
同じお金を出すのなら、旅をしたり、美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントを買ったりした方が気持ちいい。
手に入れたときの刹那の喜びよりも、心に残る幸福感の方に価値を見出すようになったのだ。
そう思う一方で、それなりのお金を出して買ったものは、何十年経っても状態の良いものが多い。つまり上質であるのが長年所有しているとわかる。
今思えば、父が買ってくれたブランドの品々は、長きに渡って使えるようなものばかりだったから、きっと大人にはわかっていたことなのだろう。
若い頃に買ったブランド品は、劣化が見えるものは処分したものの、いくら使わないからといって、何十万も出して手に入れたもの、ましてやまだ綺麗なものまで断捨離する勇気はない。かといって、とっておいても使うこともない。
そこで大学生の長女に「これいる?」と聞いてみたところ、大喜びして全て欲しいという。
デザインも今のものとは違っているから、てっきりお古など要らないと言うかと思いきや、全て自室へ引き取っていった。
若い子にとっては、古くてもなんでもブランドというだけで価値があるだなと思った。
とくに今はブランド品の価格が当時に比べてかなり高くなっている。たまに百貨店などで目にするのだけれど、あまりの高額にビックリすることがあるくらいだ。
これでは若い子たちにはなかなか手に入れるのは大変だろうなと思う。
まぁ、そもそもは若い子が持つようなものではないのだけれど。。。
昔、ヨーロッパで暮らしていた頃、パリやロンドンで日本でそうしていたように、当たり前の顔をしてブランドショップへ入ると、店員さんから冷たい一瞥を投げかけられるなどということがよくあった。
日本人の成金娘が何をしにきたの?
そんな心の声が聞こえるようだった。
確かにヨーロッパでブランド品を身につけているのは、それなりの年齢のマダム達だ。若い子ならセレブなお嬢様といった具合で、庶民の若い子がブランド物を持っていることは普通ではなかった。
そんなことを経験してからは、さすがにブランド品にこだわるようなことはなくなったけれど、日本にいればまた抵抗もなくなる。
しかし、今は大金を払ってまでも欲しいとは思わない。ブランド品に限らずいつの頃からか、物欲そのものがなくなった。
皮肉なものだ。それを持つにふさわしい年齢になったときには、自分には必要のないものとなっているのだから。。。
そうはいっても、この年齢になると、さすがにそれなりの場に行く時はそれなりのものを身につける必要がある。
なんだかんだ言っても、人は見た目で判断される。たかが見た目で、得られるものが変わるのも経験からわかっている。
とりあえず腕時計と靴さえ良いものを身につけていれば、それなりに見えるので、その辺りだけは気をつけるようにはしている。
そこでちょっと見栄えのする指輪などがあればなおいい。よくおばさんが大きな指輪をしているのを見るけれど、あれは手の老化を隠すことの目眩しという役割があるのだ。
大きな宝石に視線を集め、シワやシミの浮き出たおばさんの「手」を隠すためのアイテムになるのだ。
腕時計は定番デザインの良い物を買えば、半永久的に使用できる。時計によってはオーバーホールついでにパーツ交換でデザインを少し変えることも可能だ。
私は30年来、3本の時計を未だに使いまわしている。現在でも販売されている定番デザインに加え、きちんとオーバーホールしているので、それが古い物だと気づく人もいない。
靴も時計ほどではないけれど、きちんと日々手入れをしたり、お直しに出したりすれば、長く使用することができる。
ブランドかどうかではなく、質の良い物は長い目で見れば非常にコスパがいいともいえるのだけれど、そういったものがブランド物に多いのも否めない。
そうしたことからブランド品が悪い物だとは決して思わない。若い子がブランド品のバッグが欲しいとバイトを頑張るのも愚かなことだとは思わない。
むしろ、自分の欲しい物を手に入れようと行動するその行為は素晴らしいとさえ思う。
手に入れたい物があれば、なんとしてでも手に入れる。そんな気概こそ若い人にはあって欲しいものだ。
我が家の娘もバイト代はそうしたものに消えていっているけれど、私はそれでいいと思っている。
堅実な親であれば、少しは貯金しなさいとでも言うのだと思うけれど、私は贅沢を知ることも必要だと思っている。
部屋にズラリと並ぶブランドコスメ、バスルームには彼女専用のヘアケアグッズ、どれも「あー、こんなのにお金遣ってもったいない」と思うようなものばかり(笑)
それでも、女の子が一番美しい時に、思い切り身を飾るのは、まさにその時にしかできないことだ。
50を過ぎてからやっても、美容効果が劣化スピードに負けて惨めになるだけ。
若さというのはその時だけのもの。歳を取ればどんなにお金をかけようが手間をかけようが、若い子のような美しさは手に入らない。
きっと私が「もう欲しくない」と思うようなものは、今の自分には必要のなくなったものなのだろう。
ブランド品もその一つで、高価なものを所有するよりも、残り半分の人生でより楽しく幸せな日々を過ごすことの方が必要な時期に来たのだと思う。
私はミニマリストではないけれど、「物」は快適に暮らせる程度にあればそれでいい。
高価なものを所有し、人から羨望の眼差しを向けられたところで、多少の自己満足が得られる程度のことだ。
それよりも自身の健康や、食生活などそれに関連すること、また自分も含め周りの大切な人達を喜ばせることにお金を遣いたい。
今回の新型コロナによる自粛生活で、さらにそんな思いは強くなった。
しっかり食べて、しっかり睡眠をとって、適度に体を動かして、あとはのんびり暮らす。それでも十分に幸せだ。
生きる上で必要なものは、それほど多くはないということなのかもしれない。