今朝、友人から長いLINEメッセージが届いていた。
若い人の間では、単純に連絡ツールとして活用されているらしいLINEだけれど、我々の年齢になると、まるで井戸端会議でもするような、長いメッセージのやりとりをすることも珍しくない。
これは日記か?というように、日々の出来事を送ってくる人もいれば、悩み相談のような内容のこともある。
今朝届いていたのは、悩み相談というよりは、愚痴やボヤキといった類のLINEだった。
そこには気乗りのしない友達とのランチに行かなければいけない憂鬱な気持ちが切々と綴られていた。
そんなに嫌なら適当な理由をつけて断ればいい。
このコロナ禍なら、尚更断りやすいだろうにと思う。
そう言うのは簡単だけれど、人によっては、断ることができない人もいる。。。
「私なら」会って憂鬱になるような相手とは、最初から約束しない。
緊急事態宣言中にみんなで集まりましょうよ!という招集をかける無神経な人間なら尚更のこと。
本心はそんなところだけれど、「私なら」というのは、ほとんどの場合、良いアドバイスにはならないものだ。
その人は私ではないのだから。。。
ラインを送ってきた友人は、かねてからそのランチのお相手を快く思っていない。
もう何度もその話は聞いているので、よくわかっていた。
気を遣う相手であるとか、マウンティング好きとか、人に対して過干渉であるとか、聞いているだけで、面倒になるような人で、愚痴りながらもよくぞ長年お付き合いをしているものだと、友人の辛抱強さに呆れているのも正直なところ。
しかし、10代や20代の若い子供ではない。私達はもはや50を超えた立派な大人だ。
それしきのことで、人間関係に波風を立てるようなことをする必要もないと思うのは理解できる。
私には無理だけれど。。。
いくつになっても、他人に対して余計なことを言ってくる人は多いものだ。
ネット上でもそうだけれど、どうでもいいことに突っかかってくる人もいるし、リアルでもまた、人の言動にやたらと干渉してくる人も少なくない。
友人のランチの相手もまさにそんな人らしい。
とても幼稚なところでは、着ている服やバッグなどがブランドものではない量産品というだけで、「人からみっともないと思われるわよ」などと忠告してきたりするという。
そのため、着ていく服一つとっても、難癖つけられないかと気を遣うそうだ。
ならばご当人はハイエンドのブランドで全身固めているかと思えば、そういうわけでもないらしい。。。
せいぜい1万円程度のセーターを着ている人が、5千円のセーターを着ている人を見下げるといった具合だ。
それ以外にも、子供の学校についても、公立に行かせるなど考えられないなどと、子供を公立校に通わせる親の前で言うというからすごい。。。
何かというと、「みっともない」という言葉を発するのに、友人は辟易としているのだとか。。。
「みっともない」とは、「見たくもない」が語源になっているというから、その人にとっては、「そんな友達は見たくもない」ということなのだろうか?
余計なお世話だ。
それなら、見なくてよろしい。
しかし、それを言ったら話が終わってしまう(笑)
私も以前、ある集まりで同じような次元の余計なお節介を頂いたことがある。
娘の大学受験について聞かれた際、滑り止めを受けずに本命一本勝負で、もしもダメなら浪人する。
そう言ったところ「女の子で浪人なんてみっともない」と言われた。
「みっともないって、誰が誰に対して?」
そう尋ねたら、「周りの人や世間」という、ありきたりな言葉が返ってきた。
まったくもって余計なお世話である。
「世間様が我が子の幸せを保証してくれるわけではないので、本人の好きなようにさせます」
そう言ったところ、黙ってしまった。
他の方の手前もあったのか、揉めるのが嫌だったのだろう。
「みっともない」も結局のところ自分の思いではなく、世間が勝手に作り上げたものを基準になぞっているだけなのだと思う。
人生はこうでなければ、成功とは言わない。
そんな世間の作り上げたロールモデルを本気で信じて、それを信奉している人もいるのだ。。。
こんな学校を卒業して、こんな会社に就職して、こんな服を着て、こんな店で食事をして、こんな交友関係の中で生きる。
そんな世間の決めた事柄が基準であるなら、なんと無責任で儚いものだろう。
50を過ぎた立派な大人でさえも、そんな幻想を信じている人が多いのが解せない。
そんな人達と一緒にいると、私はモヤモヤしてたまらなくなるのだ。
自分の直接の友人にそのような人はいないけれど、時折友人の知人などという方とご一緒する機会があったりする。
そんな時、運が悪いとそんな人達と同じ時間を過ごすという拷問に遭うのだ。
件の娘の受験に対して、「みっともない」発言をした人とご一緒したときのように。。。
受験のみならず、ことごとく私とは意見が異なることを察知したのか、面倒なことにチャチャを入れてくる。
本当に面倒くさい。。。
ムキになるのもバカらしい、しかし言われるままでいるのも癪だ。
口論をしたところで、その場を白けさせ、他の方にも嫌な思いをさせることになる。
本当に厄介な人種である。
私ごときにマウントを取ったところで、何の得にもなりはしないのに。。。
「マウンティング」という言葉が出てきて久しいけれど、私はこれまでそれを実感したことがなかった。
自分と他人に優劣をつけて、お山の上に立つなどという行為は、砂場で遊ぶ園児のお楽しみだと思っていたからだ。
しかし、大人になっても存在することを知り、ちょっと驚いたと同時に、絶滅危惧種のレアな動物にでも会ったような衝撃を同時に覚えたものだ。
ある人が著名人である知人の話をしだすと、覆いかぶさるように「あら、私の知り合いの友人も◯◯さんなんだけどね」と、追いすがる。
私の履いている靴を見て、「素敵ね」と一人のお友達がいえば、「それ、もっと新しいの出てるわよ。私の友達がこの前買ってたわ」と。。。
受験に関しても、慶應はね、立教はねと、さも自分の子供がそこの学生であるかのように言うのだ。
ここでは必ず東大や京大ではなく、慶應、立教あたりが出てくるのは、勉学のみならずその経済力の誇示も目的としているからだろう。
このような方々は、なぜそんなに頑張るのだろうか?
見ていてとても不思議な気持ちになった。
そこに集っていたのは、富裕層の奥様方がほとんどで、私のような庶民は張り合う気にもなれない。
それよりも、世のセレブとはどんな生活をし、どんなことを考えているかを知る方がよほど楽しい。
そして、そんな富裕層の奥様方は概して自分と他人を比べるようなことはしない。
比べる必要がない人生を幼少の頃から送ってきた人達にとって、マテリアルはそれほど大きな意味を持たないからだ。
一方で人との間に優劣をつけたがる人は、きっと自分がお山の下の方に位置付けされるかもしれないという危機感をいつも抱えて生きているのだろう。
話を聞いていて思ったのは、他人事が気になり、常にマウンティングをとろうとする人は、その交友関係に問題があるようだ。
つまり、そういう人達に囲まれているということ。
常に自分が上になろうと競い合っている中では、誰もが自分を守るために人を攻撃するようになる。そして、やがてそれは当たり前のこととして習慣になってしまうのだ。
それが当たり前になっているものだから、どこで誰と会っても戦闘態勢で挑んでくるといった具合に。。。
そう思うと、気の毒になってくる。
あるがままの自分を認めてくれる人がおらず、常に甲冑をまとうように全身ガチガチで戦闘状態でいなければいけないのだから、どれほどストレスの多いことだろうと。
「私はこんなにすごいの!」とギラギラと光線を出してくるのも、ある種の目くらませなのではないか?
忍者が投げる煙幕の光線版みたいなものか?
眩しい光を放つことで、見せたくない部分を隠す。
加齢のため容姿の衰えが見えてきた女優さんなんかが、強いライトを浴びて真っ白にすることでシワやたるみなどを隠すのとよく似ている。。。
そんな風に先制攻撃をかけることで、自分の中にある劣等感を隠そうという心理だとも考えられる。
よくわからないけれど。。。
突き詰めれば、そこには常に他者との関わりがあって、つまりは「人から見えている自分」を強く意識した言動なのだということがわかる。
「生きづらい」と言われている現代だけれど、そう感じるのも他人に必要以上に干渉したりされたり、それに対して悶々としてしまう結果であるのかもしれない。
それならば、他人の目など気にしなければいいと思うところだけれど、人によってはそれが難しいことらしい。
持って生まれた気質の問題で、他人の言動がいちいち気になって仕方がないという人もいるのだそうだ。
気質の問題であれば、どうしようもないといったところだろうけれど、回避する方法がないわけではない。
極端に言えば、人と会いさえしなければ、余計な影響を受けることもなければ、自分への評価を受けることもない。
しかし、現実的に考えれば、それもなかなか難しいものだ。
人と関わることを避けるためには、引きこもりにでもなるほかないのだから。
「人のことなど気にするな」
これが無理ならば、せめて比べることをやめることだろう。
一見お山のてっぺんにいるような人でも、それを誇示してマウンティングするような人は、メッキを貼り付けている人が多いものだ。
たとえ自分がなんの輝きも持たない銅だとしても、所詮相手もメッキ。それが禿げれば同じ銅が隠れているだけ。
そんな争いなど愚かであることを知り、人よりも自分を見つめて生きていくことだと思う。
私は他人の言動はあまり気にならない方だけれど、それはある種の強さではなく、自分のことで精一杯、周りを「見ない」のではなく、「見ていない」からなのかも知れない。
誰がどんな服を着ていたとか、どこの誰が何をしたとか、ほとんど覚えていないくらいだ。
頭の中に比較するものが入っていないのだから、マウントもなにも取りようがない。
それでも、前途したように他者に対して無関心な人間ばかりではない。
気になる人は気になるものなのだ。
ただ言えることは、どんな人間にも光と影があるということ。
他人の光の部分と自分の影の部分を比べたところで意味がない。
他人の言動を気にする前に、もっと自分の心に注意を払ってあげることだ。
そうすれば、他人がどう振舞おうが、自分にとってはどうでもいいことになる。
自分を放っておいてくれない人も、時に現れたりすることもあるけれど、そんなときはマウント星という別の星から流れてきた人とでも思っておけばいいだろう。