In other words

I really don't know life at all ...

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美学やプライドを持つことは格好よくもあるけれど、経年劣化すると怠惰に変わることもある。

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新型コロナ以来、子供達と過ごす時間が格段に増えた。子供と言っても大学生と来年には高校を卒業する、大きな子供達。
コロナ以前であれば、それぞれ学校やお友達付き合いなどで、家にいるよりも外出していることが多かった。

それがコロナ禍によって、一同介して在宅だ。一緒に食事をし、暇な時間はなんとなくみんなリビングに集っている。そんな状況であれば、当然のことながら会話も増えるものだ。

自分の知らない世界を生きている若者の話を聞くのはわりと楽しい。昭和脳から進化できない自分にとっては、ちょっとした刺激というのか、もはやアンティーク化した既成概念を取り払ってくれたりもする。

逆に経験値の低さによる浅はかさや傲慢さに危うさを感じたり、疑問に思ったり、情けなく感じたりと、いろいろと思うところがあるのも正直なところだ。

とりわけ我が家の子供達は、話していると、もっと器用になれないものかともどかしくなる。

よく言えば、独自の美学をもっているとか、プライドを持っているともいえるけれど、悪くいえば、融通が効かないとか頑固であるということと同義なのだ。

確固たるスタイルを貫き生きるのは、格好がいいように思える。ドラマに出てくるヒーローなどは、ほとんどがそのタイプだ。物事の本質に触れるどころか、それが存在することすら知らない若い頃は、そんな生き方がことさら格好よく映るのかも知れない。

しかし、もう若さとは無縁の歳になって思うのは、プライドなどという鎧を纏うことは、それが厚ければ厚いほど厄介なものだということ。
簡単に言えば、得することよりも損をすることの方が多い。

逆を言えば、そんなものを持たずによりよく生きている人もいる。





例えば、ある知人は人の真似をすることで莫大な利益を得ている。
具体的に言って個人が特定されてしまっては困るので職種などは控えるけれど、その人はいつも誰かの作った「よいもの」をそのままコピーして、「私が作りました」と宣伝をする。

もちろん、その人のプロデュース能力は素晴らしいものがある。いくら優れたものであっても、人の目に触れなければ正当な評価以前の問題だ。
そういった点で言えば、その人の功績も大いにあると言えるのだけれど、あまりに露骨に真似をするものだから、知ってる人は口々に、

「プライドはないのかしら?」

「すべて人真似よね」

と、陰で言いたいことを言う。

それをすべて承知の上で、その人は他人の真似をすることで利を得ているのだ。

人の陰口などというものは、おそらく80%くらいは「嫉妬」という要素で構成されているようなものだから、涼しい顔で聞かぬふりをしているのは正解だと私も思うのだけれど、問題は自分の美学やプライドといったものと、どう折り合いをつけているのかという点だ。

それを、本人に聞けるほど図太くはないので、本人の心中はいまだに謎なのだけれど、とても興味深いことであるのは確かだ。

この知人の例は極端だけれど、よいものをよいと認め、それを参考に自分のやり方を変えるのことは、自身が向上するための一助となることは間違いない。

「真似」というと言葉はよくない。「見習う」と言い換えればいいかもしれない。

うまくいっている人のやり方を見習って、自分流を変えてみれば、もしかしたらよりよい結果が得られるかもしれないのだ。

しかし、己の美学やプライドが強すぎると、容易にそれを受け入れることができない。自分のスタイルを崩すことができないのだ。





自戒の念を込めて言うとするなら、私は何かにつけて自分のやり方というものに固執するところがある。年齢と共に多少の柔軟性はできたと思っているけれど、ちょっとでも気を抜くと、今でもそんなところがひょいと顔を出す。

50年以上も生きていれば、そんなくだらないプライドを抱えていたせいで、損をしてきたことは数知れず。それは充分に自覚している。
にも関わらず、完全に捨て去ることができないのだ。
困ったことに。。。

こうすればより向上するだろう

ああすれば、もっと自分の利益となるだろう

そうわかっていても、その美学だとかプライドみたいなものが邪魔をする。
それらを捨てることで、たとえ得るものが100倍になるとわかっていても、できないのだ。

しかも、それが大した美学でもない、ほとんどの人がどうでもいいと思うようなことに、敏感に反応してしまうのだから、始末に負えない。

この困った性分は遺伝子によって確実に子供達にも受け継がれている。

恐るべし、DNAの不思議。。。

とにかく自分のスタイルというものにこだわり過ぎて、あらゆる成長のチャンスを逃しているように見えるのだ。

若い時であれば少し不器用なくらいの方が色々な経験ができて学びになることもあるだろうから、今はまだいい。
しかし、心配なのはそれが癖になってしまうことだ。
この私のように。。。

幸い私には「プライド?己の美学?そんなものに捉われているのは愚かだね」と、その時々でカメレオンのようにオピニオンを変えてしまえる夫がいる。

普段は節操がない、プライドのカケラも見えない、そんな風にこき下ろしているけれど、その器用な生き方こそ夫の人生をよりよきものとしているのは確かなのだ。

そして、同じ一艘の舟に乗る私も、その恩恵を受けていると言わざるを得ない。

まさに幸いだ。。。

私がいまだに下らないプライドを捨てずにいられるのも、このカメレオン夫のせいとも、おかげとも言える。

男でも女でも、どんな伴侶を得るかでその人生は大きく変わる。どんなに自立した二人であっても、お互いの生き方は影響するのが普通だ。

何事もバランスが大切だとよく言うけれども、私と夫の場合は「0か100か」「白か黒」かという私に対して、「0でも100でも」「白か黒?カメレオンのように変えられる」そんな夫だからこそ、うまく生活が回っているのだろう。

結局のところ、夫に偏屈なプライドがないからこそ、バランスが保たれているのだ。

子供達がこれからどんな伴侶を得るのか、それはわからない。親がお相手選びをする気もないのだから、きっと自分で見つけてくるか、ずっと独りでいるかどちらかだと思うけれど、願わくばうまくバランスのとれた相手と生涯を共にしてほしい。

「三つ子の魂百まで」というけれど、人間の性分はそうそう変わるものではない。
それは損得で語れるほど簡単なことではないのかもしれない。




そんなことに付随して、ブログに関しても最近は思うところがある。

このブログではなく、メインブログのことだけれど、楽しんでいる一方で3年以上も同じようなことをしていると、だんだんマンネリ感が出てくる。
アクセス数もそこそこ安定しているし、内容的にも本人は満足しているのだけれど、なんとなく安定しすぎてつまらない。

どうせやるなら、もっと読者登録数を増やす試みをするとか、アクセス数をさらに上げる努力をするとか、他者との交流なども進んでやるべきかとか、できることはたくさんあるはずなのだけれど、それができない。。。

ただ、好きなときに好きなことを、勝手に書く一方通行の「自己満足ブログ」。
それが私のブログスタイル!
これこそ、まさに雑記ブログの原点であり美学だわ!といった具合に。。。

しかし、よくよく現状と照らし合わせて考えてみると。。。ただ面倒くさいだけ。

つまり、私は「美学」や「プライド」といった言葉をうまい言い訳にして現状維持という、より楽な選択をしているだけだった⁉︎

美学やプライドも経年劣化すれば「怠惰」に変わるのであった。。。

生きづらい社会の中では、物事をシンプルに考えることが安息となる。

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娘の大学も春からずっとリモート講義になり、そのまま夏休みに突入。そして後期もリモートでの受講と決定したそうだ。

地方から上京してきた友人達は早々に帰省しているため、会うこともままならず、時折スカイプなどで集まってはお喋りを楽しんでいる。

別に聞き耳を立てているわけではないのだけれど、部屋から時折会話が漏れ聞こえてくる。

「なんか、生きづらい世の中だよね」

一瞬、「若い娘が何を言ってるのだか」

そう笑いそうになった。

しかし、次の瞬間にはその一言に同情のような気持ちがわいてきた。

昭和の時代に青春を謳歌した私は常々、今の時代じゃなくてよかった。。。

そう思っていたからだ。

もちろん、あの頃にスマホがあったなら便利だったろうし、もっともっと派手に遊ぶことができたかも?などと無意味な想像をすることはあるけれど、何事もわかり過ぎれば複雑になる。
なんでもかんでも指先一本で解決できてしまいそうな感じというのも、なんだか面倒な気がするのだ。

もしもあの頃にSNSのようなものがあったなら、遊び友達の数も桁違いだったろうし、遊ぶ場所も違っていただろうと思う。

単純に誰とどこで遊ぶか、なにを着て行くか、なにを持っていくか、その選択肢は途方もなく、それを想像しただけでうんざりする。

今の子はすごいなと改めて思う。。。





1000000の事柄から取捨選択するより、10の事から選ぶ方が当然簡単だし、シンプルであるがゆえに潔ぎよく決断もできる。

今は昭和の頃に比べると社会そのものが複雑に映る。
たった十数年だから、実際物事の本質はそれほど大きくは変わっていないはずなのに、何もかもが天地ほども変わったように映る。

「生きづらい世の中だな」

そう感じるのは情報過多ばかりでなく、干渉というのか、監視というのか、人の目がキツイというのもある。
実際コロナ禍では「◯◯警察」とかいう、監視員が巷のSNSなどにも散見され、ニュースになっていた。

昔は近所のおばさんに「あの子、派手な格好で出かけたわよ」などと井戸端会議で噂される程度だったのが、今ではどこの誰かわからない世界中の他人から吊し上げられる可能性もあるのだ。

人生の下り坂にさしかかった年齢の私がそう感じているのだから、きっとエンジン全開で前進しようとしている若者にとっては、より「生きづらい」と感じていることだろうと思う。

それに加えて、彼らを取り巻く状況は悪化している。新型コロナという得体の知れない感染症によって、否が応でも生活が変わってしまった。

私の娘たちも、一人は大学受験を控え、もう一人は本来なら就活を始めている頃だ。

受験生はまだいい。他者との関わりよりも、自身の努力によって結果を出せるという希望があるから。
しかし、就活となると話は違ってくる。コロナ禍による影響で、これまでの就活とは同じ流れにはならないことが予想される。

「勝てる」という自信が持てない限りは、真っ向勝負をするべき時ではない。

娘には、そう言っている。

安定企業に就職することだけが幸せの道ではない。
新型コロナを機に、社会も変わろうとしている中で、これまでと同じやり方で足掻いてしまえば、疲弊して挙げ句の果てには心が病んでしまうことさえあるだろう。
いくら就職できたとしても、それでは本来求めている幸せからは遠ざかってしまうことになる。

このコロナ禍では若い人たちの方がストレスを感じているという話を聞いたことがある。

エネルギーを持て余している若者にとっては、この状況は確かに不健康といえる。
自分の若い頃を思い返しても、家にはほとんど寝に帰るだけで、思い切り社交を楽しんでいたものだ。
それが今は、友人と遊びに出ることもままならない。
中にはコロナなんてなんのそので遊んでいる人もいるだろうけれど、少しでも羽目を外せば、SNSなどですぐに広まってしまう。

まさに生きづらい世の中だ。

この先どうなるのか、まったく予想のできない今を生きるためには何が必要なのだろうか?

受験や就職も大切なことかも知れないけれど、それ以前にどんな心持ちで生きていくべきか、そちらの方が重要だ。





どうしたらいいのだろうかと道に迷った時、正しい道へ行くためにできることはそれほど多くはない。
どこで迷ったのか思い返してみても、ほとんどの場合は心当たりがないものだ。だから迷ったのだから。。。

自分の道を再び見つけるためにできることは、二つしかないと思っている。

もときた道を戻る

当てずっぽうでも、がむしゃらに前進する

振り出しに戻り、もう一度やり直すか、天国行きか地獄行きかわからずとも、がむしゃらに道を突き進むか、そのどちらかだ。

私は後者のように、とりあえず進むという生き方をしてきたから、人にもそうせよと言いたいところだけれど、万人にとってよい方法とは言えない。

人それぞれ違った個性、性格をもっている。
それがたとえ自分の子供だとしても、自分と同じやり方を安易に勧めることはできない。
石を投げられたら投げ返す人ばかりではなく、傷ついてその場に倒れ込んでしまう人もいるのだから。

ただ、厄介なときほど物事はシンプルに考えよということは常々言っている。

何事においても選択肢の多すぎる現代では、物事をシンプルに考えることは助けとなる。
迷った時ほどあれこれ考えてしまうものだけれど、実際にできることはそれほど多くない場合がほとんどなのだ。

断捨離を思い浮かべてみるとわかりやすい。人間が生活する上で必要なものはそれほど多くない。徹底したミニマリストの部屋などをみればわかる。

私自身、身体は一つしかないのに、何着もの服や靴を持っている。実際それほど必要はないし、数が多ければそれだけ迷うことも増えるというのに。
スティーブ・ジョブズはいつも同じ黒いタートルとジーンズというスタイルを貫いていたのは有名だ。
服で迷う時間が無駄だということらしいけれど、これはなるほどと思った。

本当に必要な最低限のものしかなければ、その行動もよりシンプルになる。

物事も同じ。

自分にできることが、戻るか進むか、そのどちらかしかないと考えれば、「えい!」っと潔く動くことができる。

戻ることは負けることになる?

そんなふうに思う必要はない。それも一つの方法なのだから。
仮にも負けだとしても、「負けるが勝ち」というように、最後に笑えるならそれは正しい選択だったということになる。





あれこれ色々な材料を持ち出して考えすぎると、それらにがんじがらめになって負のループから逃れられなくなることもある。
それで心を病んでしまっては意味がない。それは避けなければいけないことだし、病むくらいなら何もかも放り出してもいいとさえ思う。

私は昔から楽天的過ぎるとよく言われるけれど、それは物事をシンプルに考えると、自然とそんな思考になるせいなのだ。

なんでも白黒つけようとするところはあるけれど、そんな潔さを持たない限り、心がどうかなってしまうのではないかと思う。自分でいうのもなんだけれど、繊細な部分があるからこそ、物事をなるべくシンプルに考えようと努力している。

子供達が心を病んで暗黒の日々を送ると想像するだけで、私自信が病んでしまいそうになる。
立派な人間になどならなくてもいいから、幸せで明るい人間になって欲しい。

シンプルに考えるなら、受験も就職も生きる上での小さな事柄の一つだ。
それによって幸せになれるかどうか、どんなに頑張ってもその保証はない。

こんな生きづらい社会の中で、勝ち抜いていけるいける人は多くはないだろう。
今後はますます競争は激しくなり、格差も広がるのだろうと思う。

無理せず、欲張らず、自分が本当に必要だと思うものを見つければいい。

屋根のあるところで眠り、

毎日3食しっかりと食べ、

清潔な服を着て、

誰かと笑って暮らす。

人間の幸せとは、本来こうしたシンプルなものなのだから。

あと何年、私は母親でいるのだろう。そう思っていた頃。

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人手の密集するような場所へは、あまり出たくはないのだけれど、家族の都合などでどうしても外出を余儀なくされることがある。

夫や大学生の長女はともかく、次女は来年大学受験を控えている。
学校自体がいまだにリモート授業なのに対し、予備校はそうもいかないようで、早くから普通モードになっている。
志望校を決定する面談やコース選択など、保護者を交えてという機会もある。
本人が講師と相談して決めればいいとは思うけれど、受験というのはお金をかけようと思えば際限がない。その辺りを考慮してか保護者も一緒にということになるのだろう。
他にも受検勉強に必要なものを購入したりと、こちらもかなり高額になる場合もあり、なかなか子供だけには任せておけない。

長女が生まれてからもう20年以上になる。
母親になってからそんなに経つのだから、白髪やシワに悩まされる年齢になるのも納得だ。

長いような、あっという間だったような、そんな月日だったなと思う。

気まぐれに仕事をしたり、ちょっとしたお金儲けに動いたりはあったけれど、基本的には子供が産まれてからはずっと専業主婦という立場でいる。

家事と子育ての合間に自分の好きなことをして過ごすという、楽なのだかそうでないのだか、よくわからないような生活だ。

自分がこんなに長い間、同じ役割を継続していることに驚く。
本来は新しいことが好きで、よほど好きなことでもない限りは、同じことをやり続けることはない。

それなのに、私はもう20年以上も妻として、母としての役割を続けている。
その間、もちろん楽しく幸せな時間ばかりではなかった。さすがに母親としての役割を放棄しようとは思ったことはないけれど、正直なところ、妻としてはうんざりして逃げ出したくなることもあった。

夫といえども所詮は他人だ。いいときは問題ないけれど、例えば経済的な危機など悪いことがあったり、物事がうまく行かなくなると、その関係にもヒビが入ってくる。

夫婦は他人と言うけれど、本当にそうだなと思う。とりわけ国際結婚ともなれば、分かり合えないことの連続だったりする。
育った環境も習慣も、常識さえも違う他国の人間と生活を共にするのは、想像以上に大変なもので、それは結婚生活が長くなればなるほどに痛感させられる。

それでも、私はいまだに妻であり母親を続けている。自分がこれほどまでに辛抱強いとは我ながらすごいなと、自画自賛したくなるほどだ。





40代の頃、私はあと何年、母親でいるのだろう。。。よくそう思っていた。

やりたいことがあっても、妻と母という役割が邪魔をして、好きなことを存分にできないジレンマを抱えていたのかもしれない。

今の若い人達は「母親でも輝いていたい」と、妻としても母としても、働く女性としても充実した人生を送りたいと望んでいる人が多い。

もしも私があと20年遅く産まれ、母になったとしたらどうだっただろうと考えてみる。私も持ち得る全てを望んだだろうかと。

そしてすぐに無理だわ。。。と思った。

時代が変わろうが、本来備わった性分というものが、それを許さない。

なんでも人に任せることができない性格なのだ。それは私が人よりも上手にできるからということではなく、なんでも自分のやり方を通したいというエゴイストだから。

夫に対してでさえも、自分の描く理想と違えば容赦なく牙を剥く。なんでも自分の計画した通りに事が運ばないとイライラする。

ただ、これは子供達には通用しない。子育てとは予想もつかないことの連続であり、思い通りにいかないのが普通と言ってもいい。
不思議なのは、それがストレスになるよりも、何か新しい発見をしたような楽しい気分になったことだ。

もちろん子供相手にカッとなることはあった。今でもよくある(笑)
それでも、子育てという初めての経験は辛いよりも好奇心の方が勝り、なんとも楽しいものだった。

結果的に子育てを経験したおかげで、私もずいぶんと辛抱強くなり、成長させてもらったと思っている。





人は自由であるべきで、仕事もお金も子供も自分の生きがいも、全て欲しいのなら、それを手にするために努力するのは決して悪いことではない。

いろいろな言い訳を並べ立てて諦めてしまったら、きっと後で後悔するだろう。
全てを欲しがることは悪いことではないけれど、その代わりに何かを犠牲にする覚悟は必要になる。
全てを同時に手にしたように見えても、その裏ではいくつものほころびを見つけることができる。
自分が輝く代わりに、他の誰かがその影の部分を担うということだ。

自分の気持ちと折り合いをつけながら、「輝かないくていい」人生を送っている若い母親達も少なくないだろう。

私は自分が「母親でも輝いていたい」とは思わなかった。それ以前に人間として輝いた人生をとも考えていなかった。
ただ、自分の選んだ一本道を楽しく歩いていきたいとだけ願っていたからこそ、それほどの不満を抱えることなく20年以上も同じ役割を果たしてくることができたのだろうと思っている。

周りがどうあろうと、社会がどう変わろうと、まるで身勝手に自分の心のままに生きてきたのだと思う。

今の社会では女性の社会進出が声高に叫ばれている。専業主婦がこき下ろされるのもそんな風潮のせいかもしれない。

仕事をする楽しさは私も知っているし、たまたまこの人生では妻として、母親としての人生を選んだけれど、来世では違った生き方もいいかもしれないなどとも思う。
自分の子供達にも、仕事をしたいなら結婚後も続けるべきだと話している。

ただ、周りの人が手にしているからと、欲しくないものまで持とうとする必要はない。
なにを選ぶにしても、あくまでも自分の気持ちが一番ということだ。





あと、何年母親でいるのだろう。

もう、そんな自分に対する問いかけをすることはなくなった。
来年には末の娘が高校を卒業する。すでに母親としての役割に終わりが見えてきた。

空の巣症候群を危惧する気持ちは一切なく、実質母親からの役割から解放されるのが、ただただ嬉しいだけだ。

妻としての役割に関しては、期待されていないわけではないけれど、子育て終了と共に強制終了させていただくつもりだ。

もちろん、まったく家事を放棄するわけではない。生活費丸々いただいている以上は、その対価として家事をするのは当然のことで、それは妻だからということではない。
たとえ一人暮らしだったとして、生活するために必要な家事をするのは当たり前のことなのだから。

ただ違うのは、妻として、母親としてというよりは、もう少し人生の重きを自分に置いて生きていこうということだ。

つまりは、その時こそが自分が輝く人生を送るときなのだ。

とはいえ、相変わらず輝きたいとは思わない。輝こうが燻っていようが、それはどうでもいい。
ただ、誰に対しての責任も負うことなく、ただ自分のことだけを考えて生きていける、そんな人生を求めている。

一つの役割を終えたら、今度はまた新しいことをしようと思っていた。

母親としての役割を終えようとしているこれからが、まさに第二の人生だ。