In other words

I really don't know life at all ...

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生きづらい社会の中では、物事をシンプルに考えることが安息となる。

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娘の大学も春からずっとリモート講義になり、そのまま夏休みに突入。そして後期もリモートでの受講と決定したそうだ。

地方から上京してきた友人達は早々に帰省しているため、会うこともままならず、時折スカイプなどで集まってはお喋りを楽しんでいる。

別に聞き耳を立てているわけではないのだけれど、部屋から時折会話が漏れ聞こえてくる。

「なんか、生きづらい世の中だよね」

一瞬、「若い娘が何を言ってるのだか」

そう笑いそうになった。

しかし、次の瞬間にはその一言に同情のような気持ちがわいてきた。

昭和の時代に青春を謳歌した私は常々、今の時代じゃなくてよかった。。。

そう思っていたからだ。

もちろん、あの頃にスマホがあったなら便利だったろうし、もっともっと派手に遊ぶことができたかも?などと無意味な想像をすることはあるけれど、何事もわかり過ぎれば複雑になる。
なんでもかんでも指先一本で解決できてしまいそうな感じというのも、なんだか面倒な気がするのだ。

もしもあの頃にSNSのようなものがあったなら、遊び友達の数も桁違いだったろうし、遊ぶ場所も違っていただろうと思う。

単純に誰とどこで遊ぶか、なにを着て行くか、なにを持っていくか、その選択肢は途方もなく、それを想像しただけでうんざりする。

今の子はすごいなと改めて思う。。。





1000000の事柄から取捨選択するより、10の事から選ぶ方が当然簡単だし、シンプルであるがゆえに潔ぎよく決断もできる。

今は昭和の頃に比べると社会そのものが複雑に映る。
たった十数年だから、実際物事の本質はそれほど大きくは変わっていないはずなのに、何もかもが天地ほども変わったように映る。

「生きづらい世の中だな」

そう感じるのは情報過多ばかりでなく、干渉というのか、監視というのか、人の目がキツイというのもある。
実際コロナ禍では「◯◯警察」とかいう、監視員が巷のSNSなどにも散見され、ニュースになっていた。

昔は近所のおばさんに「あの子、派手な格好で出かけたわよ」などと井戸端会議で噂される程度だったのが、今ではどこの誰かわからない世界中の他人から吊し上げられる可能性もあるのだ。

人生の下り坂にさしかかった年齢の私がそう感じているのだから、きっとエンジン全開で前進しようとしている若者にとっては、より「生きづらい」と感じていることだろうと思う。

それに加えて、彼らを取り巻く状況は悪化している。新型コロナという得体の知れない感染症によって、否が応でも生活が変わってしまった。

私の娘たちも、一人は大学受験を控え、もう一人は本来なら就活を始めている頃だ。

受験生はまだいい。他者との関わりよりも、自身の努力によって結果を出せるという希望があるから。
しかし、就活となると話は違ってくる。コロナ禍による影響で、これまでの就活とは同じ流れにはならないことが予想される。

「勝てる」という自信が持てない限りは、真っ向勝負をするべき時ではない。

娘には、そう言っている。

安定企業に就職することだけが幸せの道ではない。
新型コロナを機に、社会も変わろうとしている中で、これまでと同じやり方で足掻いてしまえば、疲弊して挙げ句の果てには心が病んでしまうことさえあるだろう。
いくら就職できたとしても、それでは本来求めている幸せからは遠ざかってしまうことになる。

このコロナ禍では若い人たちの方がストレスを感じているという話を聞いたことがある。

エネルギーを持て余している若者にとっては、この状況は確かに不健康といえる。
自分の若い頃を思い返しても、家にはほとんど寝に帰るだけで、思い切り社交を楽しんでいたものだ。
それが今は、友人と遊びに出ることもままならない。
中にはコロナなんてなんのそので遊んでいる人もいるだろうけれど、少しでも羽目を外せば、SNSなどですぐに広まってしまう。

まさに生きづらい世の中だ。

この先どうなるのか、まったく予想のできない今を生きるためには何が必要なのだろうか?

受験や就職も大切なことかも知れないけれど、それ以前にどんな心持ちで生きていくべきか、そちらの方が重要だ。





どうしたらいいのだろうかと道に迷った時、正しい道へ行くためにできることはそれほど多くはない。
どこで迷ったのか思い返してみても、ほとんどの場合は心当たりがないものだ。だから迷ったのだから。。。

自分の道を再び見つけるためにできることは、二つしかないと思っている。

もときた道を戻る

当てずっぽうでも、がむしゃらに前進する

振り出しに戻り、もう一度やり直すか、天国行きか地獄行きかわからずとも、がむしゃらに道を突き進むか、そのどちらかだ。

私は後者のように、とりあえず進むという生き方をしてきたから、人にもそうせよと言いたいところだけれど、万人にとってよい方法とは言えない。

人それぞれ違った個性、性格をもっている。
それがたとえ自分の子供だとしても、自分と同じやり方を安易に勧めることはできない。
石を投げられたら投げ返す人ばかりではなく、傷ついてその場に倒れ込んでしまう人もいるのだから。

ただ、厄介なときほど物事はシンプルに考えよということは常々言っている。

何事においても選択肢の多すぎる現代では、物事をシンプルに考えることは助けとなる。
迷った時ほどあれこれ考えてしまうものだけれど、実際にできることはそれほど多くない場合がほとんどなのだ。

断捨離を思い浮かべてみるとわかりやすい。人間が生活する上で必要なものはそれほど多くない。徹底したミニマリストの部屋などをみればわかる。

私自身、身体は一つしかないのに、何着もの服や靴を持っている。実際それほど必要はないし、数が多ければそれだけ迷うことも増えるというのに。
スティーブ・ジョブズはいつも同じ黒いタートルとジーンズというスタイルを貫いていたのは有名だ。
服で迷う時間が無駄だということらしいけれど、これはなるほどと思った。

本当に必要な最低限のものしかなければ、その行動もよりシンプルになる。

物事も同じ。

自分にできることが、戻るか進むか、そのどちらかしかないと考えれば、「えい!」っと潔く動くことができる。

戻ることは負けることになる?

そんなふうに思う必要はない。それも一つの方法なのだから。
仮にも負けだとしても、「負けるが勝ち」というように、最後に笑えるならそれは正しい選択だったということになる。





あれこれ色々な材料を持ち出して考えすぎると、それらにがんじがらめになって負のループから逃れられなくなることもある。
それで心を病んでしまっては意味がない。それは避けなければいけないことだし、病むくらいなら何もかも放り出してもいいとさえ思う。

私は昔から楽天的過ぎるとよく言われるけれど、それは物事をシンプルに考えると、自然とそんな思考になるせいなのだ。

なんでも白黒つけようとするところはあるけれど、そんな潔さを持たない限り、心がどうかなってしまうのではないかと思う。自分でいうのもなんだけれど、繊細な部分があるからこそ、物事をなるべくシンプルに考えようと努力している。

子供達が心を病んで暗黒の日々を送ると想像するだけで、私自信が病んでしまいそうになる。
立派な人間になどならなくてもいいから、幸せで明るい人間になって欲しい。

シンプルに考えるなら、受験も就職も生きる上での小さな事柄の一つだ。
それによって幸せになれるかどうか、どんなに頑張ってもその保証はない。

こんな生きづらい社会の中で、勝ち抜いていけるいける人は多くはないだろう。
今後はますます競争は激しくなり、格差も広がるのだろうと思う。

無理せず、欲張らず、自分が本当に必要だと思うものを見つければいい。

屋根のあるところで眠り、

毎日3食しっかりと食べ、

清潔な服を着て、

誰かと笑って暮らす。

人間の幸せとは、本来こうしたシンプルなものなのだから。