In other words

I really don't know life at all ...

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ゲームをやらない私もまた『BAYONETTA 3(ベヨネッタ)』を待ち望んでいる。ゲームの進化とその世界観を知ってしまった故に。

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数日前に『ベヨネッタ3』が、ようやく出るとのニュースがあった。
などと言いつつ、私はまったくゲームをしない。

朝、いつもは寝坊ばかりの娘が珍しく早起きしたと思ったら、叫びながら大号泣。
なにごとかと慌てて部屋へ駆けつけたところ、『ベヨネッタ3』のことだった。。。

まったく平和である。。。

昨年から新型コロナによる緊急事態宣言などで、在宅することが多くなった我が家の娘。
毎日退屈でたまらないだろうと思いきや、そこはゲームオタクだ。これ幸いとばかりにゲーム三昧の日々をエンジョイしてきた。

異常なまでの凝り性を自認する私は、決してゲームには手を出さない。一度でもハマったら、もはや母親の役割も家庭の主婦としての役割も簡単に放棄し、ゲームの世界の住人になってしまうことは目に見えている。廃人気質は充分にある。
つまりはゲームによって生活が破綻する未来が見えるから、手を出さないのだ。
決して嫌いなわけではない。。。





そんな母親に否応なしにゲームの話を仕掛けてくる娘。当然だ。彼女の中ではゲームこそ全てなのだ。趣味ではなくもはやライフワークといってもよい。
話題といえばゲームしかない。

これまで様々なゲームの話を聞いてきた。
そのせいで私はプレイはせずとも、結構ゲームには詳しかったりする。何故なら、欲しいゲームがある時は必ず娘が素晴らしいプレゼンをしてくるからだ。

そして私は娘にゲームを買ってあげる。
どんなことでも夢中になれるものがあるのは素晴らしいことだと思っているから、やりたいことがあるのなら、やる気になったときにやるべきなのだ。

学生は勉学が本分だという生き方を、私は自分の子供には強制しない。ただ、興味を持ったことにとことんのめり込み、その世界を知り尽くすまで追いかけていけばいいと思っている。

そこまですれば、その子はきっとそんな分野で自分を養っていくことができるだろうからと。

もしも娘がなにかに情熱を傾けているのなら、存分にやればいい。そのためならいくらでもその手伝いはしようと決めている。
たとえそれがゲームであろうともだ。





渋谷のパルコに任天堂ストアがオープンした際には、娘の付き合いで2時間も並んだ。
欲しいゲームソフトが見つからなければ、雨が降ろうが雪が降ろうが何軒でも一緒にお店を回って、見つかるまで探し続けた。

さすがに今は親が同伴するような年齢ではなくなったので、そんな役割からは解放されたけれど、とにかく子供のためなら、親はなんでもできてしまうみたいだ。。。

そんな風に否が応でもゲームに触れ、ギリギリのところまで来ているのだけれど、未だに私はゲームに深く関わることを拒否している。
始めてしまったら終わりだ。

しかし、とうとう見てしまった。

たまたま夜中に娘の部屋を覗くと、いつものように夢中になってゲームをしている。

彼女の部屋にはゲーム専用の大型TVがある。そこに映し出されていたのは、やたらと長身、ボディーバランスの素晴らしい眼鏡の美女がくるくると舞っている姿だった。

その名は『ベヨネッタ』。。。

ベヨネッタはその大きな身体を自在に動かす。まるでオリンピックの表彰台に登る体操選手のように、いやそれ以上の身体能力で美しく踊るのだ。

次の瞬間、ベヨネッタは突然四つ足の生き物に変身し風のように街を駆け抜ける。

また場面が変わると今度は大きな羽をもつ蝶になった。

なんなのだろう、この美しさは。。。

これがゲームなの?





画像やキャラクターの美しさだけではない。そこにはストーリーがあった。

画面に見入る私に、娘はゲームの手を止めることなく説明をしてくれた。

バックに流れる音楽はドリス・デイの『Fry Me to the Moon』


Fry me to the moon

And let me play among the stars

Let me see What spring is like

On Jupiter and Mars

In other words .....

このブログタイトルと同じ。。。

『In other words 』

偶然にも私のお気に入りの曲だった。

このゲームのBGMに何故こんなクラシックな曲を起用したのだろう。
もしかしたら、深い意味はなかったのかもしれない。
私のブログタイトルと同じように。。。

それにしても、このゲームの世界観にぴったりの曲であることは間違いない。

クリエイティブだ。。。ディズニーやジブリの映画と混合はできないけれど、よくできた魅力的なストーリーだ。





私の知るゲームの世界はもはや昭和だ。そこに礎があるとしても、その片鱗すら見えないくらいに積み上げられ、磨き上げられている。

今私が見ているのはゲームではなく、一つの芸術といってもいいようなものだった。

いつの間に、ゲームはここまで進化したのだろう。

ここで私は少し安心した。
ここまでの進化に私はついていくことはできないと思ったから。
複雑なゲーム進行、テクニックを要するゲーム機の操作。もう任天堂マリオカートにサクッとカセットを突っ込み、指でピコピコとプレイしていたのとは訳が違う。もはや次元が違う。

左右にスライドしていくインベーダーをただ撃ち落とすためだけに、ビームボタンを連打するだけでは済まないのだ。

できる気がしない。。。
どんなに『ベヨネッタ』が魅力的だろうとも、私が彼女を羽ばたかせることは無理だ。

私は娘の後ろに座り込み、戦うベヨネッタを見ていた。
時折、これはどんなギャグか?と思うような場面もあるのだけれど、それがまた面白い。

多くのファンが、何年も何年も辛抱強く待ち望んでいた『ベヨネッタ3』。
ようやく先の見えないトンネルから抜け、明るい光りが差し込んだのだ。

先の見えないものに希望を抱き続けることは、とても辛いものだ。しかし、2022年というゴールが見え、ようやく娘もその苦悩から解放されたという。

大袈裟だ。。。そう思いながらも、わからなくはない。

何はともあれ、来年には新しい『ベヨネッタ』がお目見えする。
ゲームをしない私もまた、新作の映画を待ちわびるように、『ベヨネッタ3』の世界を待ち望んでいるのだった。。。

嫉妬というネガティヴな感情をポジティブに変えて向上する人生を選びたい。

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最近、娘が人間関係の難しさみたいなことを今更ながら言っていたのだけれど、よくよく聞いてみれば、それはリアルではなくネットの世界のお話だった。

どこの誰とも、何をしている人かもよく知らないネットの中の誰かと、どんな人間関係が結べるというのだろうと、昭和アナログ世代の私は思う。

ただ、リアルでもネットの中でも、そこには感情というものは確かに存在していて、多分娘が言う「人間関係」とは、そうしたことを漠然と言っているのだろうと思った。

「人間関係の難しさ」というくらいだから、それは当然ポジティブな意味ではなく、つまりは「面倒くさい人もいるものだ」というお話なのだけれど、私からすれば、そんなことに頓着する娘の方も、また面倒くさい人間だなと思う(笑)

どこの誰か知らない相手の悪意に振り回されているほど、人生は長くない。
あっという間に歳をとり、さまざまな面で限界が見えてくると、人の言動よりも自分の生き方に気持ちを傾けるようなる。

それでも10代の若者にとって、それは無視できないくらいの、少し気になることだったりするらしい。

客観的に聞いていると、そこに渦巻く多くは、妬み嫉みのようなものであることが多い。

これはネットに限らずリアルでもそこら中に落ちている、ありふれた感情で、自分も含め、だれもが嫉妬したり、されたりしながら生きていると言ってもいい。





嫉妬という感情にかられたとき、ほとんどの人は、自分の嫉妬心を自覚しても、特別な感情と思わず、そのまま通り過ぎる。つまり忘れてしまうのだ。
嫉妬したところで、自分にとっては何のメリットもないと判断できる冷静さと健康的な思考があればそうなる。

しかし、そんな人ばかりではない。
中には嫉妬から必要以上に悪意を向けてくる人というのもいるから面倒くさい。

嫉妬した相手のどこかしら悪いところを見つけて、こき下ろしたり、悪質なケースではありもしないことをでっち上げて、ふれ回るなんてこともする。

こんな人は面倒ではあるけれど、ある意味単純だなと思う。
昨今ではネット上の誹謗中傷なども問題になっていて、開示請求が認められるケースもたくさんあるので、行き過ぎれば処罰の対象になる可能性もある。

それよりももっとも厄介なのは、「悪意を持った無視」だ。
今回初めて次女が遭遇したのもそんなケースだった。

ある趣味を通したネット上のコミュニティーで、意見交換がなされる中、中心人物よりも有益な情報を提供したところ、他の人達からは結構な賞賛を受けたという。
しかし、その中心人物は自分の提言を無碍にされたとでも思ったのか、娘の意見は完全に無視し、以降は何をどう言おうが完全にいない者として扱われたという。

文字通り、まるで目にも入らないように振る舞う。若者風に言うとすれば「シカト」という状態だ。

これはネットよりもむしろリアルでよくあることかもしれない。学校や職場でもよくある陰湿なイジメの一種と言ってもいい。





悪口をふれ回る者も、無視もどちらも酷いものだと思うけれど、私はどちらかと言えば、浅はかに悪口を触れ回る人間よりも、無視をする人の方に気持ち悪さを感じる。

自分のプライドを守ることしか考えていないのか、自分の承認欲求を満たさない存在、自分よりも優れていると認める相手は「無」とする。。。

こちらにはなんの痛みもないけれど、そんな消極性がとても狡猾に思えて仕方ない。

私の経験から言えば、このような人は普段ニコニコと愛想をふりまいている人が多い。
だから余計に好きになれないし、恐ろしさを感じる。

自分の気に入らない相手と戦うのではなく、一方的に排除し、自分の自尊心を守ることだけを考えているように見えるからだ。
その自己愛の強さが薄気味悪い。

嫉妬心からあからさまに人の悪口を言うという行為は、自分の評価を落としかねない。だからほとんどの人は、嫉妬していることに気づいても、そっとその黒い感情に蓋をする。。。

しかし、それができない人は、自分を褒めそやす人に対しては、ニコニコと善人の顔を見せる一方で、自分が嫉妬する相手に対しては、涼しい顔で「悪意のある無視」という蓋をする。
これはネットでもリアルでも同じだと思う。





心の闇というのは、誰もがその心の奥底に抱えているものだ。それを自覚している人もいれば、していない人もいる。
なにかの拍子に顔を出すことはあるけれど、ほとんどの場合はそれに気づかず過ごしているのだろう。

相手を無視することで自分の自尊心を守ろうとする人は、もしかしたら、そんな自分の闇を自覚できていないのかもしれない。

自分より優れた存在を、自分を脅かすものとして、見ないふりをし、やがてそんな行為が慣れになる。当たり前の行為になる。

心の奥底どころか、闇に支配されたようなイメージしかわかない。。。

嫉妬は自身に対するコンプレックスの表れ。

そう思えば、たとえ自分に向けられた感情であっても、相手の心の問題だから不可抗力だ。嫉妬された側になすことはなにもない。

ネガティブな行動をする人とは距離をとるに限る。
よく「運気が下がる」というけれど、これはスピリチュアルなこととは関係がない。
実際にネガティブ思考の人がそばにいると、それが伝染するのだ。
物事がうまくいかない、人生がうまくいかないことでネガティブになると、行動もネガティブになる。するとさらに物事はうまくいかなくなるという負のループに陥ることになる。
そんな人のそばにいていいことはない。それは誰もが想像できることだろう。





嫉妬心を覚えるほどすごいと思う相手なら、学べることはたくさんあるはずだ。
自分がたどり着けないからこそ嫉妬するのだろうから、少しでも近づいてその秘訣とやらを盗もうと、私なら思う。
嫉妬するほどに能力の高い人間と一緒にいれば、自分もその場所へ行ける確率は上がる。

それはこれまでの経験から考えても確かなことだ。
常に自分よりも優れた人といることで、新しいことを知ることができる。

例えば、嫉妬する相手がとても綺麗な人であれば、美の磨き方を学ぶことができる。美しい人は、人一倍の努力をしているので、その知識も豊富なことが多い。

相手が羨むほどのお金持ちなら、一緒にいることでどうやってお金を増やしているのか、どんなお金の遣い方をし、管理しているのかなど知ることができるかもしれない。

一つ一つは小さなことだけれど、この積み重ねが、自分を向上させてくれる。

嫉妬をして意地悪をしたり、無視をして遠ざけることは、自分にとってとても損なことをしているのだ。

わかっていても、私だって時に嫉妬もするし、モヤモヤっと心に暗雲が立ち込めそうになることもある。

そんな風に、嫉妬という感情は誰もが抱えるものだけれど、そのネガティブな気持ちをどうやってポジティブに変えていくか、大袈裟に言えばそれによって人生は変わる。

一度きりの人生であるなら、黒い嫉妬心で自分の人生を暗いものにしてはいけないと思っている。

冒頭の娘が言った「人間関係の難しさ」に対しては、自分が嫉妬するような相手からは学びを得る努力をして、嫉妬される側になった時は不可抗力と思え。

そう話した。

それが正しいのかどうかは、わからないけれど。。。

成田空港で見た海外からの旅行者、帰国者のコロナ対策に関する不安。

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少し前、久しぶりに成田空港へ行った。
コロナ禍以降、自分が海外へ行くことも、また海外からの友人知人を出迎えに足を運ぶことも無くなった場所だ。

今回は仕事で海外へ行っていた家族が帰国することになり、コロナ対策のため公共の交通機関は使えないということで、車で迎えに行くことになったのだ。

空港へ向かう道は空いていて、途中で寄ったパーキングエリアも静かなものだった。

なによりも空港は、想像してはいたけれど、コロナ禍以前とは全く違い、閑散としていて不安になるくらいだった。

普通なら行列を成しているチェックインカウンターはどこも閉じられ、人影はまばら。
ショップや飲食店も閉店しているところばかりで、ここで仕事をしていた人達はどうしているのだろうと思った。

そんな中、ちょっと不思議に思ったのは、欧米人の旅行者だ。
時間があったので、ショップでものぞこうと、出発ロビーのある階へ行ったところ、結構な数の欧米人を目にした。

実際にどんな目的で入国してきた方々かはわからないのだけれど、バックパックを背負った若者のグループが、それぞれ富士登山で販売されてる旗付きの長いスティックを手にしていた。

ただの土産物かとも考えられるのだれど、そのスティックはしっかり土で汚れていて、いかにも「富士山登ってきました」といった風に見えた。

このコロナ禍では、観光目的では海外からの旅行も、海外への旅行もできないと、私は思っていた。

まさか富士登山が仕事ということもあるまい。。。
そうなると、何か別の目的で入国し、ついでに観光もしました。ということなのだろうか?
日本で暮らしている私達でさえ、旅行などは自粛という緊急事態宣言下で、明らかに日本在住ではないと思われる外国人が富士山の旗を持って歩いている。。。

当然、モヤモヤっとする。

その辺の理由を本人達に直接の尋ねてみたい。。。と強く思ったのだけれど、やっぱりやめた。





到着ロビーにある掲示板を見ると、あらゆる国からの到着便がずらりと表示されている。

これほど多くの国から、一日にどれだけの人が入国しているのだろう。。。
そう思うと、最近騒がれているコロナの新たな変異種が見つかったというのも、ちっとも不思議には感じない。

入国の際には、新型コロナの陰性証明は必須であり、検疫でもかなりの時間をかけているようだけれど、ご存知の通りPCR検査の結果は絶対ではない。

入国したあとも2週間の隔離が必要であり、先にも述べたように自宅やホテルで隔離とする場合、移動は公共の交通機関は使用できないことになっている。

スマホのアプリなどで位置情報が確認され、きちんと隔離されているかどうか追跡されるということだけれど、聞くところによるとここにも抜け道はあるらしい。
成田空港から普通に電車で移動している人も一定数いるという話もよく聞く。

改札などでチェックがあるのかどうか、実際に見たわけではないのでわからないけれど、入国してしまえば、あとは誰に監視されるわけでもなさそうだ。

私は車だったので、そのままパーキングから自宅へ帰宅したため、公共交通機関でどんな対策がなされているのか確証がない。

ただ、もしも厳格なチェックがなければ、電車を使う人はいるのだろうと想像できる。

千葉や東京、埼玉、神奈川あたりなら、車で移動することも可能だけれど、さらに遠いところまで帰るとなると、新幹線や飛行機を使用することになる。
その場合、公共の交通機関が使えないということになっているので、成田空港付近で2週間の隔離期間を過ごさなければならない。
それをしたくない人は、抜け道さえあれば当然その道を行くのは想像に難くない。





この日に見た海外からの旅行者にしても、帰国隔離にしても、よく言うところの「エビデンス」があるわけではなく、あくまでも想像なのではっきりした事を言いたくても言えない。

ただ、水際対策というものがしっかり機能しているのか不安だということだけは言える。

新型コロナの変異種が次々と出てきて、この夏はインド由来のデルタ株が猛威をふるった。
それでもワクチンという救世主による安心感を多くの人が持ったことだろう。
しかし、ここにきて従来のワクチンでは効果がないとされる、新たな変異種が騒がれ始めている。

目に浮かぶのは、空港のロビーで見た到着便が羅列された掲示板だ。
あれだけたくさんの飛行機が、海外から多くの人を運んでいると考えると、やはりウィルスを完全に阻止するのは難しいのだと思う。

ワクチン普及に伴い、海外からの入国者の隔離期間を短縮するという話もある。

本当にそれで大丈夫なのだろうか。。。

同時に緊急事態宣言はさらに延長されるなどと聞くと、なんだかよくわからなくなる。

私は緊急事態宣言云々ではなく、自分が感染したくないので、なるべく大人しくしていようとは思っているけれど、なんだか今の日本のコロナ対策は謎ばかりで、何を指針としているかわからない。。。

やっぱり富士登山の旗を持っていた外国人の若者に、根掘り葉掘り聞くべきだった。
たとえ、変なおばさんと思われようが。。。

成田空港へ行って、ちょっと不安になったことを書いてみた。