In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

多肉植物はじめました。育てることの難しさと楽しさは、子育てに似ている。

今年の2月終わり頃だったか、池袋西武百貨店屋上にある『鶴仙園』で、格安で並んでいた多肉植物の小さな鉢をいくつか購入した。

これまで、他の植物は色々と育てていたけれど、多肉植物にはまったく興味がなかった。
かなり前から若い人達の間で流行っているくらいのことは知っていたけれど、花も咲かない(と、信じきっていた。実は咲く)緑の塊のなにがそんなに楽しいのだろう?と思っていたのだ。

それがあることをきっかけに、これは面白いかもしれないと思うようになり、遅ればせながらの多肉植物デビューとなった。

きっかけは「金のなる木」の目覚ましい成長だった。
一昨年、夏の猛暑にも関わらず「暑いでしょう?」とジャブジャブお水をあげた結果、見事に根腐れし、長年育てていた金のなる木を枯らせてしまった。
人からの頂き物だったため、大切にしていたのだけれど、手をかけすぎたようだった。
人から頂いた物だからこそ、なんとかならないものかと、ダメ元でわずか生き残っていた2枚の小さな葉がついた茎を植え替えてみたところ、グングンと成長し、見事に復活を果たしたのだった。
この逞しさに興味を持ち、初めて「金のなる木」について調べた。そこで知ったのが、「金のなる木」も立派な「多肉植物」であったということだ。

多肉植物の生命力に、これは育て甲斐があるかもしれない。。。
そう思い、ちょっと育ててみようかと、池袋西武百貨店の『鶴仙園』で、まずは安い小さな鉢植えをいくつか買い求めたのだった。





私の興味はコレクションすることでもなく、交配種を作ることでも、インテリアの可愛い寄せ植えを作ることでもない。

目的は、ただ「育てる」ことだ。
これは多肉植物に限らず、他の植物でも同じなのだけれど、お世話をすることで、ぐんぐんと成長していく植物の変化を見ること、ただそれだけが楽しみなのだ。

池袋の西武百貨店屋上にある『鶴仙園』には、たくさんの多肉植物が売られている。
珍しい植物が入荷する日には、行列が出来るほどの人気らしく、実際に格安多肉植物だけを手にする私の傍ら、その十倍以上の値のついた鉢をたくさん買って行かれる方も目にした。

確かにお値段のいいものは、ある程度大きさもあり、見栄えも良く素敵だ。多肉植物マニアからすれば、そんな植物をコレクションすることが醍醐味となるのだろうと思う。

しかし、私は多肉植物のマニアではない。正直なところ、その種類にはこだわらない。元気に育ってくれればそれでいい。
まるで子育てだ。心身共に健康であれば、親は安心。
あわよくば、優秀に育ってくれればとの願いもなくはなくが(笑)

多肉植物も同じだ。元気でスクスク育てばいいと言いながら、もちろん好みはある。葉がまるで花のように開いているエベケリア種など、形が美しいものが好きだ。
ただ、さまざまなタイプの多肉植物を育てていると、決して好みではなかったものでも、その目覚ましい成長を見ているうちに、好きになることも往々にしてある。

実際、私が多肉植物を育て始めてから、夫がどこかのホームセンターで見つけたという、1号(直径3センチ)という、とんでもなく小さな鉢に植えられた多肉植物をたくさん持ち帰ってきたことがある。
一鉢100円くらいの安い多肉植物だ。

上の写真は現在のもので、買ってきた1ヶ月ほど前は、もっと小さかった。

それがぐんぐんとと成長し、すでに1号の鉢では収まらず、植え替えを要したものもあるほどだ。

こうなると、種類などどうでもよくなる。小さな多肉植物達が日々成長し、その姿を変えていく様は、なんとも言えない喜びだ。
とても粗末な成りであった多肉植物が、やがて大きく育ち、ついには花を開かせる様子を目にすることは、自分がする「育てる」という行為に対する結果を見ることでもある。





「育てる」という行為は、決して植物に限らない。
人間の子供でもペットとなる動物でも、基本的なところは変わらない。

もちろん、人間の子供を育てるのは、責任もあり、その難しさも植物の比ではない。
ただ、育てることの楽しさという点では、同じである。

私にも二人の子供がいる。2人とも無事に大学へ進学させ、下の子は今年成人した。
学費等、経済的な責任を除けば、もう親が面倒を見る必要はない。

最初の子供が産まれてから23年。あっという間だったようにも思えるけれど、途方もなく長い時間だったとも感じる。
小さな子供を育てていると、あまりに手がかかり、自分の時間も根こそぎ奪われて、疲労困憊だったけれど、実はもっと大変なのは、その後だった。

自我が芽生えることは喜ばしいことではあるのだけれど、そこにしばしば衝突が生まれる。親子だからこその、遠慮のない戦いの始まりだ。
このストレスは、子供が幼かった頃の比ではない。幼い頃は手間がかかるとか、聞き分けがないとかでイライラする。その時はそれもかなり大変だと感じていたけれど、成長したらしたで、やがて違った複雑な問題が多々出てくるのだ。

そんな問題を一つ一つクリアーしながらの20数年。。。自分の辛抱強さに賞賛を贈りたい。パチパチ。

子供が大人になるにつれ、そんな戦いの火も小さくなり、2人とも成人した今は、ようやく穏やかな生活が戻った。

喉元過ぎればで、子育ての大変な時期を過ぎてみれば、なかなかやり甲斐のあったことだと思う。
美しく成長し、自分のやりたいことをエンジョイしている子供達を見ていると、これがこの20数年間の結果なのだなと思う。
感無量だ。





そんな育てることの醍醐味を知ったからだろうか、数年前から植物を育てることに喜びを覚えるようになった。

小さな花の苗や植木をベランダに並べ、毎日世話を焼き、ようやく咲いた花を愛でる。

子育て同様にうまくいくことばかりではない。時には枯らせてしまったりもするけれど、子育てほどの責任はないから、残念だけれどまた再挑戦と思える。

そして、今年はじめた多肉植物だ。
まだわからないことだらけで、本を買って読んだり、ネットで調べたり、少しずつ勉強しながら、毎日ベランダに座り込んで多肉植物達を眺めている。



数日前、新たに買ってきた新入り5鉢

春先に始めたせいか、いい感じに成長してくれている。しかし、大変なのはこれからだ。
思春期を迎えた子供同様に、梅雨や猛暑といった大変な時期が待っている。

育てることは難しい。
難しいけれど、自分の努力が結果として見られるのが、育てることの楽しさなのだと思う。
その努力が必ずしも報われることばかりではない。自分の意図したこととは全く違った方向へ向かってしまうこともあるけれど、それは経験や学びになる。
育てることによって、自分も成長するということだ。





今朝も朝からベランダに出て、小さな多肉植物を一つ一つじっくりと眺めてみた。
ここも子育てと同じだ。よく見ていち早くその変化を知ること。
あまり手をかけすぎても良い結果にならない。その代わり、よく観察することだ。
生き物が弱る時というのは、いきなりということは少ない。少しでも異変を感じたら、対処することで、大事に至らずに済むものだ。

今日も雨が降りそうだったので、多肉植物の鉢を雨の当たらない場所に移動した。
リスクを少なくすることも、育てる者の役目なのだ。
ますます子育てに似ている。。。

「子育てももう卒業だから、今度は多肉植物を育てることにしたの。子育てと同じようなものだからね」

子供達にそう言ったところ、

「肉付きのよさから言ったら、自分育てじゃないの?」

そう笑われた。。。

もっと素敵な言葉をかけられないものか、なんと憎らしいことを言うのか⁉︎
そう思ったけれど、これも私の子育ての結果なのだった。。。

まぁ、いい。子供達も多肉植物も健やかであれば、それで私は幸せだ。

ありがた迷惑によるストレス。好意を与えること、受け取ることの難しさ。

f:id:frankie17:20220408202629j:plain

人から何かをしてもらったり、物をもらったりすることは、必ずしも嬉しいということばかりではない。

ありがたいという気持ちはもちろんあるのだけれど、時に困ったなと思うこともある。

私の場合は、ほとんど夫がしてくれることに対して、素直にその好意を受け取ることができない。

メインブログからも分かるように、お菓子が趣味と言ってもいい私に対して、友人知人などからよく頂き物をする。
「美味しそうだったから買ってきたわ」
「◯◯へ旅行に行ったから、そのお土産よ」
「お取り寄せついでに、あなたの分も」
そんな感じで、よく頂き物をするのだけれど、そんな場合は100%嬉しいという気持ちになる。

しかし、夫からもらうものは、いつもどこかピントが外れているというのか、欲しくもないどころか、あったら迷惑になるというものばかりなのだ。

昨日、もらったのは、よくわからないクッションのようなものだった。
なんでもスクワットをする時に、そのクッションの上に立ってやると、効果が絶大らしい。。。

私はスクワットなどしたこともない。これからもするつもりはない。それなのに、何故夫がそんなプレゼントをしてきたかと言えば、最近私が「運動不足で身体が硬くなってきた」と言ったからだという。
以前に大きなバランスボールを買ってきた時も、同じようなことを言っていた。。。

夫は趣味がワークアウトというくらいの運動好きで、毎朝早くから出かけ運動をしている。
体を動かさないと体調が悪くなると信じているせいか、私の更年期による不調も、持病からの不調も、全て運動で解決できると思っているのだ。
運動さえしていれば、すべては解決。

私の健康を気遣っての好意だと思えば、それはありがたいことだ。





また、別の時はおかしなTシャツをプレゼントされた。
私がサワードウブレッド作りを始めて、毎日のように試行錯誤しているのを見たためか、サワードウブレッドのイラストと、ふざけた文言の入った小さなTシャツを買ってきたのだ。
それはアメリカ西海岸で見かけるティーンエイジャーの着るようなピチピチのTシャツで、とても50代の私が着られるような代物ではなかった。

着られないのなら、部屋に飾ればいいと言うけれど、私にはそういった趣味はない。

極力物を増やしたくない私にとったら、使わないものが増えるのは迷惑以外の何物でもない。
それを知っていながら、無駄なものを増やすというのは、どのような了見なのだ?と思ってしまう。

「あなたのため」と言われても、それはちっとも私のためにはなっていない。

しかし、「あなたのため」と言われたら、それが実際は自己満足のためであっても、受けた方は、好意によるものと受け取るのが礼儀であると、日本人である私は思う。

アメリカなどでは、プレゼントをする際にギフトレシートも一緒についてくる。万が一そのプレゼントが気に入らない場合は、返品できるというシステムだ。

合理的といえばそうなのだろうけれど、せっかく選んでくれたプレゼントだと思うと、返品するのは気が引ける。

しかし、夫が度々繰り出してくる、ありがた迷惑なプレゼントを思うと、私もこのギフトレシートが束で欲しい!と思う。

これは家族ゆえの甘えなのだろうか。





何度言っても、何を言っても、まったく治まることのない夫のありがた迷惑行為。
歳を重ねるごとに重症化しているように思える。

長年連れ添っていれば、相手に対する配慮がなくなるものだけれど、最近のプレゼントは好意からではなく、嫌がらせか?というレベルになってきている。
もしも好意からだとしても、ここまでピントを外してこられては、付き合いきれない。

あまり喧嘩腰にものをいえば、本気の喧嘩になり、さらに面倒な事態になるので黙っているけれど、正直なところストレスだ。

最近特に迷惑に感じていることがある。夫は私のコーヒーカップが空になっているのを見ると、すぐに電気ポットのボタンを押すのだ。私がいつ飲むかわからないけれど、とりあえずお湯を沸かしておくという、自己満足この上ないお節介。。。そんなことを毎日のように繰り返されるのもストレスだ。
飲む気がなくても、せっかくお湯を沸かしたのだからと、動きたくもないのにお茶を淹れる。

まさにありがた迷惑のなにものでもない。

好意というのは、与えることも、受け取ることも案外難しいものだ。

夫は変わらないだろう。この先も自己満足なふざけたプレゼントを贈り続けるのだと思う。そして、電気ポットのボタンも押し続けるだろう。さらにすごいありがた迷惑を考え出すかもしれない。その可能性は十分にある。

相手を変えることは難しい。それならば私自身が変わるしかない。
どんなプレゼントを渡されても、どんなありがた迷惑行為をされても、笑顔で「嬉しい〜、ありがとう!」と言える自分に。。。

ストレスで病気になりそうである。

揺れる恐怖。地震の揺れと工事の揺れ、家が揺れるのはストレスになるというお話。

f:id:frankie17:20220408150140j:plain

最近、地震が多い。私は雷と親父は怖くない、火事は少し怖いけれど、地震の比ではない。
身構える時間さえ与えられず、何の前触れもなく突然揺さぶられるのだから、こんな恐ろしいものはない。
地震」「雷」「火事」「親父」が同列に語られるのは、どうもおかしい気がする。

地震に関しては、怖くないという人の方が珍しいと思うけれど、友人知人などと比較すると、私は特に地震に対する恐怖心を強く持っている方だと思う。

割と小さな揺れでも、いち早く気づいてあたふたとする。そこに地震速報などが鳴り出すと、もうダメだ。。。
「慌てず、落ち着いて行動しましょう」
「パニックになってはいけません」
よく言われる言葉も、いざ地震が起きると、「そんなこと無理よ!」と大慌てする。

夫が一緒の時などは、「大丈夫だから」という言葉で少し落ち着きを取り戻したりできるのだけれど、ひとりの時などは揺れている間中、「怖いよー」と部屋の中を歩き回ったり(揺れを感じないようにするため)、ハンディーモップを手に、そこら中パタパタしたり(揺れから気を逸らすため)といった意味不明な行動で恐怖を紛らわせ、なんとか凌いでいる。





最近、我が家が頻繁に揺れる。
私はいつもキッチンに置いた椅子に腰掛け、本を読んだりブログを書いたりしているのだけれど、下から突き上げるような小さな揺れを、日に何度も感じる。

その度にビクビクッと立ち上がり、スマホに入れてある「ゆれくる」というアプリを確認するのだ。
しかし、そこには地震があったとされる記録はない。。。

こんなことが続くと、ひょっとして私は人間が感知し得ない、微振動を脅威的なまでの動物的感によって、感知しているのではないか?
そんな風に考えるようになった。

しかし、それは大きな勘違いだった。。。

今日、転職に伴い長い休暇中の夫が、ダイニングに座っていた時のこと。

「この揺れ、いい加減にして欲しいな〜。気になって仕方ない」

そんなことを呟いた。

「あなたにもわかる⁉︎ 私たちはきっと動物並みに五感が発達してるのね」

私がそう身を乗り出すと、夫は微妙な表情を浮かべた。
これは同意していないということだ。私の唱える説が誤っているのなら、この揺れをどう説明する?

私の問いに、一言。

「工事だよ」

夫によると、我が家の近所で工事が行われていて、掘削作業をしているのを見たという。それも2箇所の違った場所でだ。

普段使う道沿いではないため、私は気づかなかったのだ。

地震ではなかったという安堵感と同時に、自分が動物並みの感度を持っていたわけではないということをかなり残念に感じた。





揺れても地震ではないとわかったので、以来バタバタと慌てることはなくなった。
しかし、あの下から突き上げるような揺れに慣れることはない。

揺れるたびに、咄嗟に立ち上がる。心臓はドキドキして、なんとも落ち着かない気持ちになるのだ。

これはあまりよろしくない環境なのではないかと思う。本来、最も安心安全で落ち着けるサンクチュアリ、それが家だ。
そんな聖域にいながら、日に何度もビクビク、心臓がドキドキしていては、まったくリラックスできない。

何かというと、すぐ「裁判だ!」などと法で結着をつけようとする外国人らしく、我が家の夫も「これは補償を問えるレベルでは?」などと言う。

東京のある街でも、工事によって道路が陥没し、近隣の家屋が被害に遭われたケースを思い出す。
それほど酷いものではないにしても、だからこそ厄介である。

特に大きな被害はないけれど、揺れるのが気になって落ち着かない。
その程度のものならば、精神的な苦痛も無視される。

今も揺れている。。。
(このブログを書いているのは午後2時頃だった)
そして、午後3時を過ぎると、空には羽田空港へ向かう飛行機が、轟音を響かせながら3分おきに家の上を通過していく。

揺れと騒音のオンパレードだ。





我が家は賃貸なので、その気になれば引っ越しをすることも可能だ。
しかし、期間限定で行われる工事の揺れのためだけに、この恐ろしく条件の整った住宅を諦めるられるものではない。

飛行機の騒音に関しては、窓を閉めればそれほど気にはならなくなった。きっと慣れてしまったのだろう。

時折、騒音が近づくと、ベランダに出て空を見上げる。かなり低空飛行のときもあり、機体がはっきりと見える。
飛行機を見るのがすごく好きなので、これは我慢できそうだ。

結局のところ、引っ越しをするよりは、工事が終わるのを待つしかないのだろう。
揺れさえしなければ、私は心穏やかに暮らせるのだから。。。

考えてみれば、工事が終わればその揺れは収まるけれど、地震という自然災害からは逃れることはできない。
日本中、どこに居ても地震のリスクはあるのだから。。。

工事の揺れに頓着している暇があったら、いつかくるであろう大地震に備え、できることなら動物並みの感も養っておくべきだろう。と、そんなことを思った午後だった。