In other words

I really don't know life at all ...

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オラクルカード占い。当たるも八卦当たらぬも八卦に委ねる未来への希望。

ある日、別室で娘二人がワイワイと盛り上がっていた。まったく性格の違う二人、興味の違う二人がどうしたことかと不思議に思いながらも、仲がよい分には平和なので、余計なことは言わず、知らないふりを決め込んでいた。
寝た子は起こさない主義だ。

ほどなくして、二人揃って私の元へやってきた。なにやら大きなカードのようなものを手にしている。

「オラクルカードって知ってる⁉︎」

長女が興奮した様子で、尋ねてきたけれど、パン作りと多肉植物、ブログ以外、特に関心を寄せるようなこともない私は知るはずもなく、黙って首を横に振る。
勝手に興奮されても困る。。。

「これ、占いみたいなものなんだけど、すごく当たるって評判なのよ」

占いなどまったく信用しない私、さらに関心は遠ざかる。。。

「カード一枚で人生がわかるなら、私なんか今頃amazon創始者並みの資産を持ってるわよ」

いつものように、下世話な例で跳ね除けてみたものの、娘達は怯まない。

「なにか悩んでること、迷ってることがあったら、それを思い浮かべて、このカードの中から一枚引いてみて!」

相変わらず我が家の面々は人の感情に無頓着だ。私に興味があろうがなかろうが、カードを引かせるという目的に向かって、ひたすら突き進むのみだ。。。






私はちょうどメインブログにアップする予定の「柏餅」レビューを書いているところだった。
集中して書いているときに、横からカードを引けなどと言われると、イライラする。

しかし、「子供達の言うことには必ず耳を傾ける」という、母となってからの誓いを破るわけにはいかない。たとえ子供達が成人していようとも、子供は子供だ。私が勝手に産んだ子供達なのだ。

一旦、ブログを書く手を止めて、カードを引いてあげることにした。しかし、悩んでいることも迷っていることも私にはない。

そもそも、そんな煩わしいことがあれば、カードを引く前に、自分でどうにかしている。
しかし、そんなことを言っていてはお話が終わってしまうので、適当なことを思い浮かべた。

ちょうどブログを書いている最中だったので、頭に浮かんだのはブログのことだった。
コロナ禍以降、アクセスが減っている。
「お菓子を買いに行って、それを美味しくいただく」という趣旨のブログなので、人の足が止まればアクセスも下がる。
社会を飲み込んだ新型コロナの影響は大きい。私の弱小ブログにさえ打撃を与えてくるほどに。。。
加えてGoogleの度重なるアップデートにより、数年前に比べると、個人ブログの検索順位が大いに下がるという傾向も後押ししていた。

かと言って、SEO対策をするでもなく、アクセスが下がろうが上ろうが、何年も同じように、気ままに書いているブログだ。
ラクルでも起こらない限り、このアクセスも平行線を辿っていくであろうことは、容易に想像できる。

よし、ブログのアクセスについて聞いてみよう。このどうしようもない状況に対し、このド派手なカードはどんな答えをだすのか。

相変わらず意地が悪い。。。





「私のブログはアクセスも減ってきています。この先どうなるのでしょうか」

そんなことを呟きながら、娘の手の中にあるカードを一枚引いてみた。

「はい。これですね」

長女がなぜか占い師然とした口調で、私の手からカードを取り上げると、その結果を読み上げた。

「"TRUST"。今はとにかく自分のしていることを信頼する時です。天使が素晴らしいものを用意しています」

なんと、天使は私にとんでもないミラクルを用意しているらしい!
真顔で「天使」の存在を当然のように肯定している娘。。。いつからスピ娘になったのか?

しかし、いくら信じていないとは言え、結果が良ければ悪い気はしない。120%の疑いを持ちながらも、「天使」の存在が気になり始めてくる。

なんだか気分をよくした私、今度はブログ収益について尋ねてみることにした。

収益化が目的でないとはいえ、毎月メインブログから発生する数万円の収益は、そのまま私のお菓子代になっている。
収益があってもなくてもお菓子は買うのだけれど、お菓子ブログから得られる収益でお菓子代を賄うことができれば、夫の稼いだお金でお菓子三昧の生活をしている「穀潰しの専業主婦」扱いからは逃れられる。

あわよくばに願いを込めて、もう一枚。

「ブログの収益はこの先爆上がりすることはあるのでしょうか。。。」

今度はかなり本気でカードを引いた。

現れたのは「YES!」と記されたカードだった。
ただの「YES」ではなく、「!」のついたYESは、「絶対に」という意味があるという。

これは、これは!

次第に前のめりになる私。

ああ、もしかしたら、数年後には夫から「もう扶養範囲では無理だ。キミのせいで、税金がさらに重くなる」などと、お小言を言われるようになるかもしれない。。。
老後の夢である「全国お菓子を巡る旅」も、ブログ収益で賄えるかもしれない。

頭の中一面に花が咲いた。まさにカラフルなお花畑だ。

「オラクル」と「カラフル」、似ていなくもない。
もしかしたら、このカードの名の所以はそこなのか⁉︎

その結果により、人をいい気分にさせ、頭の中に花が咲くような「希望」をもたせるカード。。。
それが、カラフル、、、ではなくオラクルカード!





人間の欲というものは際限がない。
一つ望むものを手にすると、さらに欲が出てくるものだ。

すっかり頭の中がお花畑と化した私は、さらなる天使の言葉を求め、次なる願いを唱える。

「私は痩せることができますか?」

答えは「It's up to you 」

あなた次第ですって⁉︎

当たっている。。。

なんということか。。。
占いの類は一切信じていない、興味もない。若い頃からスピリチュアルを公然と否定してきたというのに、この食いつき具合といったら!

私はその後も、様々な野望を心に描きながら、次々とカードを引きまくった。

火付け役であった子供達、最初はノリノリだったのだけれど、この頃になると「いい加減にすれば?」といった面倒臭さが露骨に顔に現れるようになっていた。

それでも、頭がお花畑になった私の手は、もはや止めようがなかった。

次はね、次はねと、私は頭に思い浮かぶ事柄を、片っ端から天使に投げつけた。

もう尋ねることはない。そう思うくらいやった結果、私は結論を得た。

それは、「このカードをやり過ぎてはいけない!」ということだった。





何度もやれば、確率的にあらゆるカードが出てくる。中にはネガティブなお告げもあったりする。
すると、途端に理不尽な怒りが湧いてくる。まったくもって身勝手だ。占いすら、思い通りにコントロールできると思っている傲慢さ。いつのまにそんな大人になってしまったのか。。。

そして、また新たなカードをめくる。
もう、全てのカードをめくり尽くしたのではないか?というくらい、引きまくった結果、私にもたらされたお告げは多種多様なものとなった。。。

もはや、意味がわからなくなってきた。

私が占いを信じないのも、まさにそこなのかもしれない。
一つの事柄に対し、常に同じ答えがあるわけではない。そんな漠然としたことに耐えられないのだ。

それを自分の望む答えが出ないと腹を立てるという身勝手な性格が後押しをする。
挙句、たとえルールを無視しようとも、望む答えが得られるまで、没頭するようなところがあるのを、自分自身が一番よくわかっているから、自ら「信じない」と思い込んできたのだろう。
だから、私は占いには近づかなかったのだ。

そうでなければ、私は日本津々浦々を巡り、あらゆる有名占い師に運勢を占ってもらい、最後には恐山のイタコの口寄せにまで辿り着いていただろう。

若い頃、私の友人にも大変な占い好きがいた。よく付き合わされたものだけれど、今思えば、彼女もまた納得する答えを求め、占い師を渡り歩いていたのだと思う。
あの時、占いにハマらなくて正解であった。

私には占いの類いは向いていない。というよりも、もっともスピリチュアルに近づいてはいけない類の人間なのだ。





ここで、少し大人らしく冷静に考えてみた。
『オラクルカード』がすごいと言われる所以について。

それは、やがて来るであろう真実を示しているからではなく、答えを得た人が前向きに物事を考えられるように作られたものだからと推測する。

つまりは「希望」なのだ。

希望のチラ見せ。

私は「希望」というものが大好きだ。
嫌いな人はいないだろうけれど、過剰なまでに信頼しているといっていいほど好きだ。

だからこそ、例え一瞬でもこのカードに夢中になってしまったのだろう。

このカードには希望がある。
正確に言えば、「希望の光」を見せてくるカードということだ。

誰しも未来に起こることは予想できない。どんな順風満帆な人生を歩んでいると思っても、ある時思いがけない落とし穴にポトンと落とされることがある。
それが人生だ。。。

50年以上生きていれば、そんなことは慣れっこにになるほど、私も何度も穴に落ちた。

まさに「一寸先は闇」の人生を私達は生きているのだ。

新型コロナの登場などそのいい例だ。コロナ禍以前は、自由に人とも会えない、街を歩けない、旅行もできない、そんな生活は想像もできなかった。

バブル崩壊リーマンショックを通り過ぎ、さらには新型コロナと、寄せては返す波のように、困難に見舞われ続けていたら、未来を信じることなどできなくなる。

その割には脳天気に暮らしているけれど、逆を言えば、そう開き直ってしまわないかぎりは、先には進めない。

行き先が見えないというのは、とても不安なものだ。何も見えない暗闇の中を歩くのと同じで、一歩踏み出すのが怖くなる。

しかし、もしそこに例え小さくても、光り輝く何かが見えていれば、それを道標に進む勇気が湧いてくる。

ラクルカードに見た「希望」とは、そんな小さな光なのだ。





白けたことを言えば、たかがカードに印刷された天使たちがなにを言おうが、景気はよくならないわよ。。。などと思うのだけれど、「信じるものは救われる」のだ。

実際にそのカードの効力を信じる我が子達は、自分の進むべき道に対しての確信をそのカードから得て、グングンと前に進んでいる。

希望に導かれて、健全に前へ進む。そんな後押しが欲しい人には、とても役立つカードなのだろうと思った。。。


それなら、毎週日曜日に教会へでも通えば同じではないか?と思うところだけれど、私は無宗教だ。
というか、幼い頃は近所の教会へ通っていたこともあるけれど、それは天使のカードが欲しかったからで、信仰とは全く関係のない理由からだった。
天使のカードをある程度収集し、気が済んでからは一切教会には足を踏み入れていない。

そんな邪な欲にまみれた者が行くべきではないので、私よりも更に欲深い我が子達にはとうていおすすめできない。

家でカードで占いをしているくらいが、ちょうどいい。

結論から言えば、「信じる者は救われる」で、このカードも然り。

当たるも八卦当たらぬも八卦

当たればラッキー、当たらずとも、ただの占いだと、その「希望の光」だけを見て、前に進めばいい!

そう言いたいところだけれど、幼い頃の教会通いから考えて、占いよりも、もしかしたらただの「天使のカード」好きによるもの?そんな気もしないでもない。。。

占いに開眼か⁉︎
そう思ったものの、やはり私には無縁のもののようだった。。。

歳を重ねるのは素敵なことなのか?白髪染めで考えた若さへの羨望と老いる気楽さ。

普段はほぼ2週間に一度、白髪を染めるために美容院へ通っている。
コロナ禍では自分で白髪染めを買ってきて染めたこともあったけれど、手間もかかる上に、なかなかキレイに染めることができない。

月に2度もわざわざ白髪を隠すために美容院へ行くのは、正直言ってとても面倒だ。それでも、自分で染めるのとは仕上がりが雲泥の差。なにより座っているだけですべてキレイにしてもらえる楽さは、通う面倒を遥かに上回る。

白髪をキレイに染めてもらった後は、「ああ、これで少しの間は安心だ」そう思う。
しかし、その憎らしい白いヤツは、どんなに塗り潰しても、すぐにまた「白」の陣地を奪還するが如く攻撃を仕掛けてくる。まるでスプラトゥーンみたいな陣地取りゲームのようだ。
また少ししたら、こちらが劣勢となる。

この果てしない戦いを思うと、「いつまで続くのだろう。。。」と、時折うんざりとした気持ちになる。これは若い頃にはなかった悩みの一つだ。
シワやシミ、弛みといった、加齢に伴う悩みも同様なのだけれど、白髪ほど頻繁に煩わしさを感じることはない。

シワやシミ、弛みに関しては、少しずつ、少しずつ、陣地を拡大され、気づけば惨敗といった有様なので、これはもうどう足掻いても敵を打ち負かすことは不可能だから、降参するしかないと諦められる。
しかし白髪は違う。美容院へ行けば、一瞬でもこちらが優位になるのだ。
だからこそ、この戦いがやめられない。





この果てしない白髪との攻防を、いつかやめる日が来るのだと思う。けれど、それは10年、20年先だ。50代のいま、まだ降参する気にはなれない。

歳を重ねることが楽しみという言葉をよく見聞きするけれど、私はやはり若さとは素晴らしいものだと思う。

私には年頃の娘が2人いるのだけれど、彼女達が美容院へ通うのは、ファッションを楽しむためだ。
スタイルを変えたり、色を変えたり、さまざまな変化を楽しむために、美容院へ通う。

しかし、私は違う。美容院へ行くのは、白髪に抗うため、そして加齢のために艶を失ってきた髪を慰めるためなのだ。

もう、それだけで若さとは素晴らしいことだと思える。

確かに歳をとり、楽になったことはたくさんある。
所謂、開き直ることが容易にできるようになったせいで、あらゆることが「どうでもいいこと」「他愛のないこと」に分類されるようになった。

たとえば、自分の容姿にしても、若い頃はことさら自意識過剰になるものだけれど、50も過ぎれば、「もう、誰も見ていないわよ」と開き直り、近所であればノーメークはもちろん、部屋着のままでコンビニへ行ってしまったりもできる。

人間関係においても、誰に何を言われようと、なんとも思わなくなった。若い頃からあまり人のことを気にするタイプではなかったけれど、トラブルがあればその火の中へ飛び込んでいくくらいの熱さは持ち合わせていたものだ。
いまは争うことも面倒だと、よほどのことでもない限りは、スルーするようになった。

刺激のない生活を送っていると、その凪に慣れてしまう。その安穏とした暮らしに少しでも波風が立つと、「ああ、面倒くさい」と思う。

若い頃ならば、躍起になって勝ちをとろうと大騒ぎしたものだけれど、今は寝たふりで済めばそれでいいと思うようになった。知らんふりしているうちに、嵐が過ぎれば御の字。

相手がなんやかんやと突いてきたら、さすがに怒りを爆発させることもあるけれど、そんなことは稀だ。
そういった点では、歳をとるのも悪くないと思う。





諦めがよくなったというのも、歳をとったからこそ手に入れたことの一つだ。

若い頃というのは、誰しもが何某になりたがる。自分の能力や適性を客観視できないというのか、過剰に評価してしまうのだ。見えていないからこそ、恐れを知らず、どんなことにも果敢に挑戦できる。
啓発本に書かれた偉大なる人物の人生に自分を重ね、己の努力は必ず実るものだと信じて、がむしゃらに突っ走るのだ。
もちろん、それで成功を手にする者もたくさんいる。それは本人の努力はもちろんだけれど、本人の資質、時代や社会の流れに後押しされるなど、運もついて回るものだ。

経験値が上がるにつれて、そうしたことを知り、さらに自分の限界が見えてくると、努力だけではどうにもならない物事があることを知る。

女性であれば、結婚や出産などといった要素が加わってくると、さらに事情は複雑になり、家族を思いやったりといった優しさが、仇になったりもする。
仕事か家庭かで世の中の女性たちが多くの悩みを抱えるのも、そこなのだ。

「仕事と家庭」について突っ込むと、お話は脱線し、収拾がつかなくなるので、またの機会にするとして、とにかくこの歳になれば、そんなことにも諦めがつくようになるものだ。

負けで上等とばかりに、開き直ったり、諦めたりできればストレスはない。
これは歳をとったからこそのものだろう。

ただ、少しつまらなくもある。楽だけれど退屈を感じたりもする。
勝ちを取るために競い合ったり、ジタバタと足掻いたりするのは、なかなかエキサイティングだ。
嫌なこと、不快なこと、楽しいこと、嬉しいこと、全ては寄せては返す波に乗り、代わる代わるやってくる。

大波に挑む『ビッグウェンズデー』のジャン・マイケル・ビンセントさながら、人生の荒波に果敢に挑むのは、エキサイティングだ。

ビッグウェンズデーを諦めた老いたサーファーには、もうそんな熱狂を感じることはないのだ。
感じたくても、それが不可能であり、無駄な足掻きとなることがわかる。命を削ってまでも求めるものではないと諦める。

それが歳をとるということなのだと思う。

白髪からビッグウェンズデー。。。
飛躍も甚だしい。





あの美しかったジャン・マイケル・ビンセントはもういない。。。
そんな時の流れを改めて感じると、もはや白髪を受け入れてもいい年齢になったのではないかと思う。
諦めという術を発動させる時だ。

しかし同時に、あの紺碧の海を染める白い水飛沫のように美しかったジャン・マイケル・ビンセントを思い浮かべると、若さに対する絶対的な輝きが羨望の波となって押し寄せてくる。
まさにビッグウェンズデー!

つまりは、若さとは素晴らしいものなのだ。

ハリウッド俳優と自分を同列に並べるほど図々しくはないけれど、若さは万人にとって、あらゆる欠点をカバーしてくれるものであり、エキサイティングな日常を運んできてくれるものなのだ。

ただ、よくよく考えてみれば、そんなエキサイティングな毎日であったら、体力がもちそうにない。
遠巻きにビッグウェンズデーを眺め、「私ももう少し若ければ。。。」と、凪いだ海面にぷかぷかと浮かんで高みの見物を決め込んでいる方が楽そうだ。

若さは素晴らしいけれど、楽な人生もまた然りということか。

若さと引き換えに、そんな安穏とした生活や開き直りを得たとはいえ、50代でグレーヘアーにするほどの潔さはまだ持てない。

人はないものねだりなのだ。白髪に悩まされない若さも欲しいし、エキサイティングな日常も楽しそうと思うけれど、面倒なのは御免。

つまり求めるものは、髪黒々、艶々、若さを抱えたまま、気楽な開き直り人生を!

そいういことだ。

多肉植物はじめました。育てることの難しさと楽しさは、子育てに似ている。

今年の2月終わり頃だったか、池袋西武百貨店屋上にある『鶴仙園』で、格安で並んでいた多肉植物の小さな鉢をいくつか購入した。

これまで、他の植物は色々と育てていたけれど、多肉植物にはまったく興味がなかった。
かなり前から若い人達の間で流行っているくらいのことは知っていたけれど、花も咲かない(と、信じきっていた。実は咲く)緑の塊のなにがそんなに楽しいのだろう?と思っていたのだ。

それがあることをきっかけに、これは面白いかもしれないと思うようになり、遅ればせながらの多肉植物デビューとなった。

きっかけは「金のなる木」の目覚ましい成長だった。
一昨年、夏の猛暑にも関わらず「暑いでしょう?」とジャブジャブお水をあげた結果、見事に根腐れし、長年育てていた金のなる木を枯らせてしまった。
人からの頂き物だったため、大切にしていたのだけれど、手をかけすぎたようだった。
人から頂いた物だからこそ、なんとかならないものかと、ダメ元でわずか生き残っていた2枚の小さな葉がついた茎を植え替えてみたところ、グングンと成長し、見事に復活を果たしたのだった。
この逞しさに興味を持ち、初めて「金のなる木」について調べた。そこで知ったのが、「金のなる木」も立派な「多肉植物」であったということだ。

多肉植物の生命力に、これは育て甲斐があるかもしれない。。。
そう思い、ちょっと育ててみようかと、池袋西武百貨店の『鶴仙園』で、まずは安い小さな鉢植えをいくつか買い求めたのだった。





私の興味はコレクションすることでもなく、交配種を作ることでも、インテリアの可愛い寄せ植えを作ることでもない。

目的は、ただ「育てる」ことだ。
これは多肉植物に限らず、他の植物でも同じなのだけれど、お世話をすることで、ぐんぐんと成長していく植物の変化を見ること、ただそれだけが楽しみなのだ。

池袋の西武百貨店屋上にある『鶴仙園』には、たくさんの多肉植物が売られている。
珍しい植物が入荷する日には、行列が出来るほどの人気らしく、実際に格安多肉植物だけを手にする私の傍ら、その十倍以上の値のついた鉢をたくさん買って行かれる方も目にした。

確かにお値段のいいものは、ある程度大きさもあり、見栄えも良く素敵だ。多肉植物マニアからすれば、そんな植物をコレクションすることが醍醐味となるのだろうと思う。

しかし、私は多肉植物のマニアではない。正直なところ、その種類にはこだわらない。元気に育ってくれればそれでいい。
まるで子育てだ。心身共に健康であれば、親は安心。
あわよくば、優秀に育ってくれればとの願いもなくはなくが(笑)

多肉植物も同じだ。元気でスクスク育てばいいと言いながら、もちろん好みはある。葉がまるで花のように開いているエベケリア種など、形が美しいものが好きだ。
ただ、さまざまなタイプの多肉植物を育てていると、決して好みではなかったものでも、その目覚ましい成長を見ているうちに、好きになることも往々にしてある。

実際、私が多肉植物を育て始めてから、夫がどこかのホームセンターで見つけたという、1号(直径3センチ)という、とんでもなく小さな鉢に植えられた多肉植物をたくさん持ち帰ってきたことがある。
一鉢100円くらいの安い多肉植物だ。

上の写真は現在のもので、買ってきた1ヶ月ほど前は、もっと小さかった。

それがぐんぐんとと成長し、すでに1号の鉢では収まらず、植え替えを要したものもあるほどだ。

こうなると、種類などどうでもよくなる。小さな多肉植物達が日々成長し、その姿を変えていく様は、なんとも言えない喜びだ。
とても粗末な成りであった多肉植物が、やがて大きく育ち、ついには花を開かせる様子を目にすることは、自分がする「育てる」という行為に対する結果を見ることでもある。





「育てる」という行為は、決して植物に限らない。
人間の子供でもペットとなる動物でも、基本的なところは変わらない。

もちろん、人間の子供を育てるのは、責任もあり、その難しさも植物の比ではない。
ただ、育てることの楽しさという点では、同じである。

私にも二人の子供がいる。2人とも無事に大学へ進学させ、下の子は今年成人した。
学費等、経済的な責任を除けば、もう親が面倒を見る必要はない。

最初の子供が産まれてから23年。あっという間だったようにも思えるけれど、途方もなく長い時間だったとも感じる。
小さな子供を育てていると、あまりに手がかかり、自分の時間も根こそぎ奪われて、疲労困憊だったけれど、実はもっと大変なのは、その後だった。

自我が芽生えることは喜ばしいことではあるのだけれど、そこにしばしば衝突が生まれる。親子だからこその、遠慮のない戦いの始まりだ。
このストレスは、子供が幼かった頃の比ではない。幼い頃は手間がかかるとか、聞き分けがないとかでイライラする。その時はそれもかなり大変だと感じていたけれど、成長したらしたで、やがて違った複雑な問題が多々出てくるのだ。

そんな問題を一つ一つクリアーしながらの20数年。。。自分の辛抱強さに賞賛を贈りたい。パチパチ。

子供が大人になるにつれ、そんな戦いの火も小さくなり、2人とも成人した今は、ようやく穏やかな生活が戻った。

喉元過ぎればで、子育ての大変な時期を過ぎてみれば、なかなかやり甲斐のあったことだと思う。
美しく成長し、自分のやりたいことをエンジョイしている子供達を見ていると、これがこの20数年間の結果なのだなと思う。
感無量だ。





そんな育てることの醍醐味を知ったからだろうか、数年前から植物を育てることに喜びを覚えるようになった。

小さな花の苗や植木をベランダに並べ、毎日世話を焼き、ようやく咲いた花を愛でる。

子育て同様にうまくいくことばかりではない。時には枯らせてしまったりもするけれど、子育てほどの責任はないから、残念だけれどまた再挑戦と思える。

そして、今年はじめた多肉植物だ。
まだわからないことだらけで、本を買って読んだり、ネットで調べたり、少しずつ勉強しながら、毎日ベランダに座り込んで多肉植物達を眺めている。



数日前、新たに買ってきた新入り5鉢

春先に始めたせいか、いい感じに成長してくれている。しかし、大変なのはこれからだ。
思春期を迎えた子供同様に、梅雨や猛暑といった大変な時期が待っている。

育てることは難しい。
難しいけれど、自分の努力が結果として見られるのが、育てることの楽しさなのだと思う。
その努力が必ずしも報われることばかりではない。自分の意図したこととは全く違った方向へ向かってしまうこともあるけれど、それは経験や学びになる。
育てることによって、自分も成長するということだ。





今朝も朝からベランダに出て、小さな多肉植物を一つ一つじっくりと眺めてみた。
ここも子育てと同じだ。よく見ていち早くその変化を知ること。
あまり手をかけすぎても良い結果にならない。その代わり、よく観察することだ。
生き物が弱る時というのは、いきなりということは少ない。少しでも異変を感じたら、対処することで、大事に至らずに済むものだ。

今日も雨が降りそうだったので、多肉植物の鉢を雨の当たらない場所に移動した。
リスクを少なくすることも、育てる者の役目なのだ。
ますます子育てに似ている。。。

「子育てももう卒業だから、今度は多肉植物を育てることにしたの。子育てと同じようなものだからね」

子供達にそう言ったところ、

「肉付きのよさから言ったら、自分育てじゃないの?」

そう笑われた。。。

もっと素敵な言葉をかけられないものか、なんと憎らしいことを言うのか⁉︎
そう思ったけれど、これも私の子育ての結果なのだった。。。

まぁ、いい。子供達も多肉植物も健やかであれば、それで私は幸せだ。