In other words

I really don't know life at all ...

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不安症、心配性は更年期の影響か。解決法を模索した結果たどり着いた結論。

最近、異常なほどに心配になったり、強い不安に襲われることが増えた。
例えば、外出する際に火の元や施錠など、十分に確認しているにも関わらず、家を出た後に心配になったり、就寝前に離れて暮らす子供や夫は大丈夫かと不安になったり、とにかくこれまでとは違って、心がわさわさとするのだ。

これまでそんなことは全くなかった。夏を過ぎた頃から急に、過剰な心配や不安に襲われるようになったのだ。
最初は気づかずに心配したり不安になっているだけだったのだけれど、ある時ふと「この過剰な心配は少し異常ではないのか?」と思った。

なぜそうなったのか、いつもの如くGoogleに聞いてみた。
たくさんの情報の中から、もっとも当てはまったのが「更年期症状」の一つだというもの。

ホルモンのバランスが崩れることによって、身体だけでなくメンタルにも影響があるのはよく言われることだけれど、心配や不安といった症状もよくあるものだという。

身体的な更年期症状は自覚していて、こればかりは仕方がないと楽観していたけれど、心配性、不安症に関しては、更年期が治るのを待つのは辛すぎる。

どうにかならぬものかと、またGoogleに尋ねてみた。



簡単にできる解決法の一つとして、気分転換というのがあった。昼間なら散歩やお買い物に出ればいいのだけれど、就寝前ではそうもいかない。
そこで目をつけたのが、好きな音楽や動画で気持ちを切り替えるというものだ。

早速、お布団に入った後、Instagramなどで美味しそうなお菓子を眺めたり、YouTubeで興味のある動画などを観るようにしてみた。

結果、これはなかなか効果的だった。不安だった気持ちが逸らされて、明るいイメージが頭の中に広がり、不安が薄らいだのだ。
時には昭和の頃に流行った歌などを口ずさんでみたり(時に熱唱)、心配や不安とは違ったノスタルジーに浸って眠りにつくようになった。

それまでは布団の中にまでスマホを持ち込むようなことはなかったのだけれど、就寝前にYouTubeで動画を観ることが、すっかり習慣となった。

そんな時、お友達から興味深い話を聞いた。
それはスマホの使いすぎによってアルツハイマーのような症状をきたす可能性があるというもので、就寝前までスマホを観ているのは要注意だというのだ。

重要ではない雑多な情報が脳に蓄積されることにより、情報処理能力が正常に機能しなくなり、物忘れや集中力が落ちるというものらしい。

必要ではないゴミのような膨大な情報に邪魔され、正確な判断などができなくなるということなのだろう。

直接は私の抱えている心配、不安症とは結びつかないかもしれないのだけれど、この話は、また別の不安をもたらしたのだ。

困った。。。
スマホによって心配や不安感を払拭できたと思っていたのに、それが他方では新たなリスクとなる可能性があるというのだから。。。

歳をとるというのは、悲しいものだ。
鉄のメンタルと言われてきた自分が、これほどまでに弱くなるのだから。



これは就寝前のスマホもほどほどにした方がよさそうだと思い始めたとき、たまたまハードな一日を過ごしとても疲れてしまった日があった。
YouTubeなど観る暇があればすぐに眠りたい。。。そう思うほど疲れていた。

その夜はなんの心配も不安も感じることなく、ただ眠りたいという気持ちだけだった。
そこで思ったのは、結局いまは暇すぎるのではないか?ということだった。
少し投げやりなアイデアだなと思いながらも、理解できないことこそシンプルに考えるのが解決の道というのはこれまでの経験からも確かなことだった。
投げやりというのもまた、自分の心を守るために有効というケースもある。

暇すぎるから余計なことに頭を支配されると思えば、話はぐっと簡単になる。
毎日目の前にやる事が山ほどあり、それをどう消化しようという状況であれば、心配などしている暇はない。次へ次へと進んでいくことのみを考える。

自ずと解決策は見えた。
とにかく遊びでもなんでも予定をいっぱいにして、忙しくしていればいいのだ。ちょうどコロナ禍の前のように。そうすれば余計な心配や不安など入り込む隙もないほど疲れることだろう。

しかし、50を超えた中年にとって、ことはそれほど単純ではないことを思い出した。。。
忙しくすれば気力に体力が追いつかず、自覚なしに疲労を蓄積し、どっと蕁麻疹が出たりする。ゆっくりと過ごしていれば、改善するのだから、やはり疲労が原因なのだろう。
ゆっくり過ごしていると心配や不安に悩まされ、忙しくしたらしたで身体に影響が出てくる。。。

一体どうしたらいいのだろうか。

多くの人が更年期症状に悩まされ、日常生活にも支障をきたすというけれど、それも納得だ。

更年期とは一般的に閉経を挟んだ前後5年の10年間と言われている。
まだまだ先は長い。。。

きっと病院へ行けば、それなりの治療法というものがあるのだろうけれど、薬には頼りたくない。
どうにか上手い落とし所を見つけなければと思うけれど、結局のところ自分の心の問題だ。
自分で決着をつけたいのなら、疲れない程度に忙しくも充実した日々を送り、「更年期なんてなにさ!」と、それが去るのを待つしかないと思うのだった。

50代は貯めどき。健康維持と貯蓄、老後の不安に備えた一挙両得の試み。

少し前に現在住んでいるマンションの更新があった。
その際、1ヶ月分の更新料を納めるのだけれど、都心ゆえに賃料も高い。
2年おきに更新料という名の事務手数料を何十万も払うことに、面白くない気持ちにもなるけれど、こればかりは仕方がない。
税金と同じで、払わなければいけないものは、さっさと払ってしまうに限る。

50代になってもなお、マイホームを買うこともせず、賃貸暮らしをしているのは、ただ単に買いたくないからだ。

持ち家の場合、よほどのことでもない限りは、そこが終の住処となるのだと思うけれど、私は若い頃からその時々のライフスタイルに合わせて、住む場所を変えたいと思っていた。

今は便利さをお金で買うと考えて、都心で暮らしているけれど、きっともう少し歳をとれば、この環境も必要としなくなるだろう。

まだ次女が独立していないので、当面はこの都心暮らしを続けて行くだろうけれど、次女が家を出たら、きっとまた別のところへ行くのだと思う。

同じ都心部でも、もっと小さなマンションに移るか、もう少し静かな環境を求めて、地方にでも行くか。。。
この自由に動けるという気楽さは、マイホームを持つことよりも私にとっては優先順位が高いのだ。

そんな遊牧民のような暮らしを夢見るとき、やはり先立つものはお金である。
お金さえあれば、自由に好きなところで、好きなことをして暮らしていける。
持ち家ではないからこそ、老後のための貯えも十分でなければいけない。

人生100年と言われるいま、老後資金に2000万円必要だという話がずいぶん前に話題になったものだけれど、賃貸暮らしではそれも心許ない。

最近読んだ本によると、年金プラス5000万円はないと、普通に暮らすのは難しいという話だ。
確かに65歳から、例えば30年生きるとすると、2000万円では月にたったの5万円だ。これではワンルームすら借りることはできない(東京では)。



マンションの更新料だけではない。
大学生の娘2人分の授業料、それぞれ半期分を先月の末に支払った。
マンションの更新料も含め、すべて合わせてざっと150万近くが一気に出て行った。。。

150万を貯めるのは大変だけれど、出て行くのはあっという間で、貯金通帳を眺めては、思わず漏れる溜息。

それでも、長女の学費はこれが最後。まだ次女は大学1年生と先は長いけれど、私学の長女に比べ、次女は国立なので、学費もグッと軽減される。

これから、第二の貯めどき到来だ。
夫が定年するまで、あと15年はある。この15年でしっかり貯蓄を増やして、豊かな老後を送ろうと、気持ちを切り替えることにした。
これまで何度も「切り替える」と意気込んでいたものの、老後の不安もどこか漠然としていたせいか、喉元過ぎれば今日まで来てしまった。。。
しかし、もうそんな悠長な考えではいけないと、今度こそ本気で気持ちを切り替えなければと思っている。

そんな前向きな気持ちに水をさすように流れてくるのが、値上げのニュース。

先月だったか、電気料金を見てビックリした。4人暮らしから2人に変わったので、多少は電気料金が軽減されるかと思いきや、むしろ以前よりも高くなっている。
終日エアコンをつけていなければ凌げないほど暑い時期だったので、一年で最も電気料金が嵩む月だ。それは想定内であったのだけれど、あまりの高さに驚いたのだった。

電気料金のみならず、食品関係も軒並みの値上げ。スーパーへ行くたびに、これだけしか買っていないのに、こんなにかかる?と、レシートを確認したこと数知れず。。。
趣味のお菓子にしても、昨今は日々のおやつとするには贅沢な価格となってきている。

もう何もかもが、高くなったと感じる。

趣味や贅沢品は我慢すれば済むけれど、光熱費や食費は人間らしく暮らすためには、必要不可欠なもので、多少の節約はできたとしても、それに追い討ちをかけるように値上げ、値上げでは、もうどうしようもない。

貯めどきどころか、これまで子供の教育費に回っていたお金は、極端な話、そのまま生活に取って代わる可能性があるのだ。



いまは贅沢をしなければ十分に食べるには困らないけれど、一体いくらあれば安心な老後が送れるのか、わからなくなってきた。

子育ても終え、家事育児の負担もない。一日のほとんどは自由に過ごせる時間なので、仕事をするという選択肢もある。
ただ、それは今のところ考えていない。

さすがに好きなことができないというくらいに困窮したら、すぐにでも働く用意はあるけれど、毎日美味しいご飯が食べられるうちは今のままでいたい。

昨今では老若男女問わず、働けという風潮になっている。
「生きがい」「女性も輝く社会」そんな言葉に置き換えられているけれど、仕事以外でも生きがいや輝ける場所は見つけられる。
天邪鬼な私からすれば、全国民から少しでも多くの税金を徴収したいという思惑が裏に隠されていると思ってしまう。
綺麗な言葉で人をその気にさせて、裏では頭のいい官僚達がニヤニヤとしているのではないか?と考えてしまうのだ。

日本では累進課税が採用されている。つまりは稼げば稼ぐほど、ごっそり持っていかれるという仕組みだ。
夫の給料明細を見るたびに、頑張って働いて収入を上げても、それと同じくして年貢が重くなるのなら、何のために頑張っているのやら?と思う。
私が働いて収入を得れば、さらに税金は重たくなる。

50をとうに過ぎた私が、気力体力を消耗しながら働き、さらに増税となったら輝くどころではなくなる。

私にも働きたいと思っていた時期があった。試しに半年間の短期契約でパートタイマーとして働いたこともあったけれど、とても大変だった。。。
仕事以外の時間は家事・育児に追われ、たとえ自由な時間が得られても、疲れ切って何もする気が起きなかった。
フルタイムで働いてるママさん達は、本当にすごいなと思うけれど、私には無理だった。。。

夫にとっても、これまで私に丸投げしていた家事・育児の手伝いをしなければいけないのは大変だったようで、仕事を辞めた時は大層喜んだものだ。
仕事に全集中する環境は、夫にとって必要だったのだ。

「もう仕事などせず、家のことをしながら、ゆっくり過ごしたらいい」

自分の好きなことさえできない生活、健康不安などによって、すっかり仕事がしたいという気持ちも萎んでいた私は、素直に専業主婦に戻ったのだった。



仕事をしていないのだから収入はない。あるのは5年ほど書き続けているブログから得られる収益くらいのものだ。
収入と言えるほどではないけれど、趣味のお菓子を買ったり、年に一度や二度、一人でぶらり旅へ出る程度のお金はそれで賄える。

本来ならそれを貯金に回せばいいのだろうけれど、生活の中で人並みの楽しみを見出そうと思えば、専業主婦とてお小遣いは必要だ。

老後の蓄えはやはり夫からいただくお給料からというのが、我が家にとっては現実的だ。
毎月、夫からいただく生活費も、以前はきれいさっぱり使い切っていたけれど、ここ数年は物欲も消え、使い切ることはなくなった。
人間とは不思議なもので、貯金通帳に記録される数字が増えると、それに楽しみを見い出すようになる。貯金することが目的ではなく、その数字が増えていく様に楽しみや喜びを感じることが目的になるのだ。

へそくりを増やしていく楽しみを得てからは、積立てNISAも始めた。非課税となる¥33,000満額、毎月積み立てている。

それでも私自身の貯蓄は遠く5,000万円には及ばない。
我が家は夫婦共々お互いの資産を知らない。あえて尋ねることもしないので、夫がいくら隠し持っているのか、一銭も隠し持っていないのか、まったくわからない。
夫も私の懐事情は知らない。結婚前に買った不動産、親から譲り受けた美術品等、全く把握していないようなのだ。
別に内緒にしているわけではない。世間話の折に何度か話したことはあるはずなのだけれど、ちゃんと聞いていないのか、興味がないのか、それに対して言及することはない。
つまりは、お互いの資産状況を知らなくていいということなのだと思う。

専業主婦はリスキーだと言われている。離婚したら収入が絶たれるのだから、それも当然だ。
特に我が家の夫は外国人なので、時に冷酷とも思えるような考えを持っている。
これは若い頃から肝に銘じていことなのだけれど、この歳になると余計に油断はならないと思うようになっている。

やはり先立つものはお金なのだ。
健康な身体とお金さえあれば、どう転ぼうとも怖くはない。



子育てに不相応なばかりにお金をかけたせいで、私の虎の子もかなり目減りした。
夫婦でも子育てに対する考えは違う。夫が「これは無駄」と切り捨てれば、諦めるしかない。しかし私は子供達がどうしてもやりたいと思うことには投資してあげたいと思っていた。
夫に口出しさせない唯一の方法は、夫のお金を遣わないということだった。
結局、夫の賛成が得られないケースでは、私が自分の貯金から賄ってきた。
「あのお金さえとっておけば。。。」
そう思わないこともないけれど、いま自分の好きな道を歩んでいる子供達を見ていると、あれは必要な投資であったと思える。
そんな子育ても、そろそろ終わりを迎えようとしている。

ようやく教育費が一段落したいま、ようやく自分のための貯蓄に励む時が来たのだ。

物欲はないけれど、これまで趣味のお菓子にはかなり散財してきた。最近は年齢のせいか、お金よりもまず胃袋が追いつかなくなっている。
コロナ禍で運動不足となったのにも関わらず、お菓子を食べ続けた末、贅肉も増えた。なによりも成人病にでもなったらという不安がある。

最近は健康を危惧して、お菓子も控えめにするようにしている。そのおかげで出費もかなり減っている。
健康維持と貯蓄、まさに一挙両得だ。

健康で長生き、そして経済的な不安のない老後を目指し、今度こそ頑張っていこうと思うのであった。

二十代に戻り人生をやり直すことができたとしても、きっと同じただ一つを求める人生を選ぶのだろう。

先日、美容院で二十代の若い美容師の男の子の話していたら、その眩しいばかりの若さが心底羨ましくなった。
趣味の話、旅の話、食の話、恋愛話と、施術してもらっている間、いつもいろいろなことを話すのだけれど、その時につい「いいなぁ...羨ましいわ」と口から出てしまった。

結婚している身の上なので、恋愛はともかくとして、趣味や食などやっていることは大して変わらない。やろうと思えば彼のしていることは私にもできるようなことだ。

それなのに、なぜそんなに羨ましさを覚えたのだろうか?

一つはまだ劣化を知らない健康な身体。こちらは50もとうに過ぎ、更年期真っ只中。少し無理をしただけで、「あー疲れた」と身体の節々が痛くなったりで、いやでも老化を実感する毎日だ。
一日中立ち仕事をした後、ジムで汗を流すという話を聞いて、これが若さなのだなとしみじみと思ったのだった。

そしてもう一つは「時間」に対する羨望だ。
人生100年と言われる時代だけれど、私はもうその半分以上を使ってしまっている。しかしまだ20代の彼は、私の倍は人生を楽しむ時間が残されている。
多分それが「羨ましいわ。。。」と口にした一番の理由なのだと思う。

生きていれば楽しいことばかりではない。時に辛く悲しいこともあるけれど、それを思い出にしてくれるくらい楽しいこと、喜ばしいこともあるものだ。
生きているのが辛ければ、若さを羨むことはないだろう。逆に楽しければ、この時間がいつまでも続けばいいのにと願う。

人の命は有限ではあるけれど、この先私よりもさらに楽しい時間を多く持てる可能性のある「若さ」が羨ましかったのだ。

「もしも、もう一度二十代に戻れるなら、何をしますか?」

そんな質問をされた。

一瞬だけ考えて、スラスラと口から出てきた言葉。

「また同じことをすると思う」

自分にとって当たり前のようでいて、また意外とも思える答えだった。
同じこととは「たくさん遊ぶ」「好きなことをする」ということだ。

きっと私は何度生まれ変わっても、ささやかな自分の「好き」を求めて、こじんまりと自己満足な人生を送るのだろう。。。



最近、大学生の次女が、ある悩みを口にした。

「大学で勉強を頑張ると忙しすぎて遊ぶ暇がなくなる。しかし、大学生のうちにたくさん遊んでおいた方がいいとも思う。どうしたらいいのだろう」

そんなことを本気で悩んでいるようだ。

一年浪人してまで頑張って入った大学で、そこでの経験や肩書きは将来必ず役に立つものだ。
しかし、次女はいつも遊んでばかりいる私や長女の姿を見ているせいか、遊ぶことも必要なのでは?と思っているようなのだ。

親としては遊び呆けていられるよりは、大学でやるべきことを頑張って欲しいと思っているけれど、自分が遊んでばかりいるので次女にだけ押し付けるわけにはいかない。

正直なところ、自分は楽しむことをだけを考えて刹那的に呑気な人生を送り、幸いなことにいまも同じように暮らしている。当然真っ当なアドバスなどできない。

「将来のことも視野に入れ、今はきちんと必要なことを学校で学ぶべきでは?」

一応、親らしくそんなことを言ってみようとも思ったのだけれど、それで次女が大人しく言うことを聞くとも思えない。言っている私自身が実践していないのだから。。。

「遊びたいのなら、今こそ遊ぶべき。大人になってから遊ぶのと、若いうちに遊ぶのとでは経験も喜びも感動も密度が違うのよ」

そう言って、遊ぶことを薦めるのも少し怖い気がする。
それこそ長女のように、大学を一年休学してまで、自分の「好き」に没頭する可能性もあるからだ。

ただ、そんな長女は今とても幸せに楽しそうに毎日を過ごしている。
大学生ではあるけれど、自分で収入を得て、一人暮らしをしているので、自由を謳歌しているのだろう。
学費はこちらで払っているけれど、それ以外の援助は一切していない。
お金を出さないのなら口も出さない。それが持論なので、私が口出しするのはお金を出しているところだけだ。

「せっかく入った大学なのだから、卒業だけはしてね。卒業しないと投資した分の回収ができないからね」

長女にはそう言うだけで、あとは自立したとみなして、何も言わないようにしている。

しかし次女はまだ親の元にいる。学費以外の衣食住、バイト代で遊ぶお金が賄えなければ多少の援助もしている。
つまり「言う権利」は有しているのだ。
それでも、「遊ばずに学業を最優先にせよ」とは言えない。

吉と出るか凶と出るか、私にも未来は見えないのだから、
無責任なことは言えない。

ただ確かなのは、今の自分の姿は過去にどう生きてきたかの答えだ。もちろんよく言われる「親ガチャ」のように、人生とは運にも左右される部分は多分にあると理解しているけれど、自分の考え方、生き方で行き先が変わることは往々にしてある。

結局のところ、自分がどの道を歩くかは、自分で決めるのが一番ということなのかも知れない。
たとえ親でも子供の人生に責任は負えない。生きるのは子供自身なのだから。



私が重ねて子供に言ってきたことがある。それは「don't be greedy 」。「欲張ってはいけない」ということだ。

あれもこれもと多くを求めすぎると、全てが中途半端になり満足できず不幸になるよと。
迷った時は、いま自分にとって一番やりたいと思えることを選択しなさいと言ってきた。

その結果がどうなろうとも、後悔しないくらい「やりたい」と思うことを全力でやるべきということだ。

それがたとえ遊びで、将来どうなるかわからないとしても、それが自分の選択であり、後悔しないというのなら、その道を行けばいいと本気で思っている。

ただ一つ言えるのは、長い人生の中では方向転換も可能だということ。
もしも「これは間違いだった。別の道の方がよかった」そう思ったらたとえ後戻りしてでも、別の道へ行くことも可能なのだ。

よく、「やった後悔よりも、やらなかった後悔」という言い方をされるけれど、自分自身の経験から言えば、ほとんどの場合やらなかった後悔の方が後々心に重く引っかかるものだ。

やりたいことができるのは、大きな幸せの一つだと思う。
仏教の教えでは生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦というように四苦八苦あり、生きることは苦しみに他ならないと考えられているけれど、人生はお釈迦様が唱えるほど苦しいことばかりではない。
四苦八苦と同じくらいの喜びや幸せもあると、私は信じている。
だからこそ、チャンスがあるのなら好きなことを、心からやりたいと望むことをして欲しいと、子供達にも望んでいる。

「欲張らずに、自分がいま一番やりたいと望むことはなにか、よく考えてみたら?」

結局、次女に向けたアドバイスはそんなことくらいしかできなかった。
彼女がどんな道を選択するかはわからないけれど、それほど悲惨な人生になることはないと思っている。
そう信じられるくらいに、一生懸命に子育てをしてきたつもりだ。

ここは自分の子供を信頼して、自分の人生を考える方が大切である。
子供に「欲張るな」と言ったのだから、私もあれこれ望むべきではない。
ただ一つでも、自分が一番に望むことが叶えば、それはとても幸せなことだと思わなければいけない。

いま、私がなにか一つを選択するとしたら「楽しき人生」。ただそれだけだ。

もう一度20代に戻ったとしても、生まれ変わったとしても、私が私である限りは変わらないのだろうと思う。

何度転生を繰り返しても、成長しないということだ(笑)