In other words

I really don't know life at all ...

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物理的孤独という贅沢。精神的孤独という空虚。対極にある二つの孤独について考えたクリスマスイブ。

光陰矢の如しというように、今年も残すところ数日となった。
今日はもうクリスマス・イブ。

子供達がまだ小さな頃は、家に大きなツリーを飾り、その下にたくさんのプレゼントボックスを並べたものだ。
クリスマスディナーも大きな丸鶏を焼き、スープにオードブルを並べ、家族4人でわいわいとクリスマスを楽しんだ。

クリスマスプレゼントを買い集めてラッピングしたり、海外に住む夫の親兄弟や親戚にカードやプレゼントを送ったり、そしてクリスマス数日前からはご馳走の準備と、とにかく忙しく過ごしていた。

いま思えば、よくぞ毎年毎年そんな面倒なことをしていたものだと思う。
しかし家族が喜んでくれるのが嬉しかったのだろう。嬉々としてそんな行事をこなしていた。

今年は12月になってものんびりとしたものだ。
我が家のクリスマスは外国人である夫のためというのが一番大きかったと思うのだけれど、そんな夫も今年は単身赴任でクリスマスは家で過ごさない。おそらく結婚して初めてのことだ。
夫は少し残念そうだったけれど、もう子供達も大きくなったし、今は家族よりも各々自分のやるべきことをするべきでは?との提案に「それもそうだね」と納得してくれた。

子供達はといえば二人とも成人し、長女は一人暮らしをするため家を離れた。唯一一緒に暮らしている次女も大学生となり、日々忙しくしていてほとんど家にはいない。
クリスマスも「もう頑張らなくていいよ」とのことなので、お言葉に甘えて今年は何もしないことにした。

おかげでお買い物も気が向いた時に、ぶらりと自分の好きなお買い物をするために出かけるだけとなった。

先日、やはりぶらぶらとお買い物をした帰り道、たまたまイルミネーション輝く通りを歩いた。
真っ暗な中に延々と伸びる氷のように光る道はとてもきれいだった。

その通りに限らず、この時期は街の至るところでイルミネーションが燦々と輝いている。



イルミネーションに彩られた街はとても美しい。毎年のように見ている光景であり、正直言って見飽きてもおかしくはないのに、毎年見るたびにしばし足を止めてしまうほどだ。
何度見ても飽きることのない圧倒的な美しさ。。。
だからこそ、多くの人がただそのイルミネーションを見るためだけに、寒い夜の中に集うのだろう。

そんな美しいイルミネーションを見ていれば、ほとんどの人は華やかな気持ちになるのだろうけれど、何故か私はとても寂しい気持ちになる。。。

そんな風に感じるようになったのは、一体いつからだろうと考えてみたら、それはちょうど50歳を過ぎた最初の冬だったのではないかと思った。

すっかり日が暮れた寒い夜、六本木のけやき坂を歩いていた。
氷のように冷たい青いイルミネーションが、突然真っ赤に変わった瞬間、なんて華やかで綺麗なのだろう。。。と、一瞬だけ頭上のイルミネーションを見上げた。
真っ赤に染まったけやき坂を、ただ進んでいくうち、なぜかひどく寂しい気持ちに包まれたのだった。
どう表現していいのかとても難しいのだけれど、美しいとは思っても、そこに感動したり心を躍らせることがなくなってしまったことに気づいたのだ。

それは、かつて自分を輝かせてくれていたものがすっかり失われ、もはや自分は空っぽになってしまったということなのだと思った。
ショックでも落胆でもなく、そんな気持ちになったことがただ寂しかった。

何かを見たり、聞いたり、読んだり、そんな時に心を揺さぶられるという経験を、かつては毎日のようにしていた。
心に寄り添うなにかが、「すごいね」「素敵ね」と、頭の中でお祭り騒ぎをしているような状態だ。
そんな頭の中の何かは消えてしまって、私に語りかけてくれるものはなくなってしまったのだ。。。

この感情に名前をつけるとしたら、「精神的な孤独」というのが一番しっくりくる気がする。

これは誰かと一緒であるか否かとは全く無関係な「孤独」だ。
誰と一緒であったとしてもきっとそんな孤独から逃れることはできないように思うのだ。

人から孤立し独りぼっちで寂しいのではなく、自分自身がひとりきり、まるで丸裸になったような心細さを感じる時こそが私の感じる孤独なのである。

私にとっての精神的な孤独とは、他者との関わりと関係のない、自分自身の心の問題で、失われたものに対して、取り返しのつかないような気持ちを認めた時に現れるのだ。
そんな時、強く孤独を感じるような気がする。

逆のことを言えば、たった一人でいても心が温かく満たされている時もある。
ひとりで美味しいものを楽しんだり、寒い夜にぬくぬくと温かい毛布にくるまっているとき、私はとても温かい気持ちになる。

なにぶん自分の心の中のことだ。どんな解釈もできてしまうのだけれど、シンプルに言ってしまえば、イルミネーションを見て悲しくなるのは、色々なことに胸を躍らせていた子供であった頃に持っていたものは、もはや全て失われ、二度と自分の元に戻ってこないことがわかっているから。そういうことなのだと思う。



孤独というのは、案外得体の知れないものなのかも知れない。
「孤独」というものに寂しさを感じながらも、逆に「独りになりたい。。。」
そんな風に思うことが、私にはよくある。
これは「物理的な孤独」を求めてのことだ。

独身の若い頃であれば、ふらりと旅に出て、気が済むまで独りの時間を楽しむことが出来たけれど、家族のいる今はなかなかそんな勝手もできない。
やろうと思えばできるけれど、いつ帰るかなど旅の計画も知らせない訳にもいかないし、もうそれだけで気ままな旅という訳にはいかなくなる。
誰かの妻であり、母である私は、常に家族に対しての責任というものがあると考えてしまうからだろう。
旅先で子供達の事などを気にしながらでは、なんだか100%楽しむこともできそうにないし。。。

今はせいぜい2泊3日程度の旅か、普段は独りで買い物へ行ったり映画を見たりと、都内をふらふらする程度だ。

どこにも属したくないという思い。。。
私にとって「物理的な孤独」とは若いころからの関心ごとの一つだった。
ただ、昔は一人でいる方が好きというよりは、一人でいても平気といった感じだった。しかし、今では好んで孤独を追いかけているようなところがある。
それは今の自分が物理的に孤独でいられる機会が少ないからかもしれない。

孤独という贅沢。。。
孤独と聞いても、それが物理的なことであれば、私には「寂しい」というイメージはない。私にとっては贅沢なことなのだ。

「あの人は孤独よね」なんて事をよく耳にするけれど、そのほとんどが物理的な部分を見て他人が判断しているものなのだろう。
本当の孤独は外から見えないものではないかと私は思っている。

孤独=一人で寂しい。そんな簡単なことではない。もしそう思っているとすれば、その考えこそが精神的に自分を孤独にしている要因なのだと思う。



家族というコミュニティーは、一番身近で重要なコミュニティーであり、同時に最も厄介な場所とも言える。

家族と言えども、全ての人と気が合うわけではない。どんなに濃い血の繋がりがあったとしても、性格は皆千差万別。似たところはあったとしても、そもそも同じ人間ではないのだ。
中には正反対な性格、価値観を持った、まるで仇のような家族すら存在する。

しかし、家族としてそのコミュニティーに生を受けた以上は、そんな気の合わない人とも無関係でいることは難しいものだ。

自分のどこか心の底にある「情」というものを捨て去るのはなかなか難しいものだからなのだろう。
そこをスパッと割り切って、たとえ縁を切ったとしても、なにか事が起これば必ず家族の元に連絡がきて、家族としての責任を果たすよう社会からは求められる。
切っても切れない縁というものが、家族間では存在するのだ。

だからなのだろうか、配偶者や子供がいるから安心だなどと口にする人がなんと多いことか。
自分が年老いて自立した生活を営なめなくなったときに、血の繋がった家族がいれば安心という事なのだろうか。

しかしそれとて永遠でも絶対でもない。
子供はいつか巣立ち、新しいコミュニティーに属する者となっていく。
人生の伴侶とも必ず別れの時は訪れる。
切っても切れない縁とはいえ、必ずしも依存できるものではないのだ。

そこに依存しようとするから、そのコミュニティーが消滅した時に、居場所を失ったような気持ちになるのだろう。



職場というコミュニティーはどうかと言えば、今は時代も変わり、昔に比べると「個」が尊重される社会になってきているようだ。

昔はとにかく仕事もプライベートも一緒くたといった風潮が強くあったように記憶している。

上司からの誘いを断ると自分の立場が不利になると、日曜日ですら朝から接待ゴルフに出かけるという、罰ゲームのようなことも平然と行われていた。

さっさと帰りたい残業明けも、食事や飲みのお誘いは当たり前。
「帰ります」などと言おうものなら、おきまりの「付き合いが悪い!」の大合唱を浴びることになる。

私が会社という組織に属することを避けていたのも、こうした人間関係が面倒だったせいもある。
会社の一員としてでなく、例えばフリーランスとして接している分には、扱いが変わるからだ。

以前、短期で働いた職場でも年末の忘年会や年明けの新年会など、まるで全員が出席して当たり前といった空気で驚いたものだ。
平成も終わろうという時代にも関わらず、まだ昭和とあまり変わっていないのだなと苦笑したのを覚えている。

もちろん私は全て不参加で通したけれど、何十人もいる部署で社員、パート含め、参加しなかったのは私ともう一人の男性たった二人だけだった。

それほど仲の良い職場でもないにもかかわらず、こんな時の団結力といったら⁉︎
そう思ったものの、裏で交わされる「本当は行きたくない」「会費払ってまで馬鹿らしい」なんて愚痴を聞いてしまうと、それならなぜ断らない?と不思議になったりもしたものだ。

「それなら断ったら?」
私がそう言おうものなら、
「波風立つのも嫌だから。あなた、みんなにまた自己中とか、何様?とか言われているわよ」
などと、逆に忠告を受ける始末(笑)

自分を押し殺してまでも、職場というコミュニティーの「和」を守ろうとするのは、どうしてなのか、私には理解出来なかった。

友達というコミュニティーも、時に厄介だっりする。
友達がいるというのはいいものだ。気の合った仲間と一緒に美味しいものを食べたり、お喋りをしたり、独りとはまた違った楽しい時間を過ごす事ができる。

しかし、いつでも一緒に行動しなければいけないとなると、これは大変なストレスにもなりかねない。
学生の頃、トイレへ行くのも教室移動も常に一緒に!といった女子が沢山いたけれど、この歳になってもまだその癖が抜けない人もいる。

お買い物に行くのも映画や美術館へ行くのも、必ず「付き合ってくれない?」と、誰かと一緒に行動しようとする。
私は若い頃からそれがとっても苦手だった。

お買い物もその時の気分であっちへ行ったりこっちへ行ったりと、気ままに歩き回りたいのに、人が一緒では必ず「疲れた」などと水を差されることになったりする。美術館などでも気に入った展示を気がすむまで眺めている事も出来ない。
だからこそ独りがいいのだ。



最初からどこへも属していないという気持ちでいれば、物理的に孤独でもそうでなくても寂しさを感じることはない。
どこへも属さない生き方ということだ。

属さないからといって、必ずしも他者との関わりが完全に断絶されるわけではない。
かなり都合のよい考えではあるのだけれど、属さずとも共に過ごすことはできる。


自ら孤独を望むのと、否応なしに孤独に晒されることでは感じ方が違うのだろうか。
本当の意味で孤独になった事がないからこそ、孤独であることを恐れないのか。

難しい理屈など抜きにして、たった独りでいる事が孤独だというのなら、私はやはり孤独でいる時間が好きだ。

精神的な孤独という空虚はザラザラとした砂の上を延々と歩き続けるようで、たまらなくなることはあるけれど、そうしたことも受け入れて、始めて本当の孤独とお友達になることができるのかなと今は思っている。

人間は生まれてくる時も、たった一人で狭く苦しい産道を通り産まれてくるものだ。
そして死ぬ時も寂しさや苦しみをたった一人で抱えながら去っていく。

結局は一人。誰もが孤独から逃れることができないのなら、「孤独」とは生涯に渡り、良きパートナーでいたいものだ。

と、なにを訳のわからないことを書いているのだろう?と自分でも思う。。。
こんなとりとめのないことを考えるのも、すべて更年期のエストロゲン減少によるもので、本来はイルミネーションなどになんの興味も示さない情緒のない人間なのである。。。

今年はクリスマスディナーのお支度もなく、のんびりと過ごせるので、暇に任せて自己満足ブログを書いて過ごしているのであった。。。

私がふるさと納税をしない理由と、来年はしてみようかと思っているお話。

少し前のこと、楽天のセールでお買い物を楽しんだのだけれど、出品されている商品の中で、やたらと「ふるさと納税品」が目についた。
ブランド牛に鰻やカニ、ウニもあれば高級フルーツもある。まさにみんなの大好物がてんこ盛りである。
これだけのものが楽天にまでズラリと並んでいるのだから、それだけ多くの人が「ふるさと納税」を活用しているということなのだろう。。。

しかし、私は一度もしたことがない。何故ならば、私は東京以外の街には縁もゆかりもないので、する当てがないのだ。

もしも私が地方の出身であったら、自分の生まれ育った街には恩義も感じていただろうし、両親なども暮らしているだろうから、間違いなく故郷へふるさと納税していただろうと思うのだけれど、あいにく私にはそんな故郷がないのだ。

いまは節税はもちろんだけれど、豪華な返礼品をお目当てにふるさと納税を活用する人も多いと聞く。
どんな思いで、どんな理由でふるさと納税をしているのか、人それぞれだろうし、システムがある以上はどんな理由であれ、それを活用する権利はある。

ふるさと納税」に限らず、国から与えられる権利や義務というものは、必ずしも平等ではない。
だからこそ、あちらを立てればこちらが立たずで、政府の取り決めには不満が出るのだろうけれど、権利があるのならそれを行使するのは決して間違っていないと思っている。
いいか、悪いか、それ以前にシステムがあり、それを使うことによってメリットがあるのなら、誰が何を言おうが、活用するのは悪いことではないのだ。



賛否両論あるようだけれど、「ふるさと納税」も然り。
思い入れのある街を応援したいと思うか、節税した上に返礼品をもらって得をしたと喜ぶか、自分の住む自治体に納税して、自分も含め、そこに住む人々の暮らしに役立ててもらうか?
選択は人それぞれだ。

私の場合、諸々の理由を秤にかけた結果、自分の住む街を選んでいるというだけなのである。

税金の使い道に関しては、一納税者として不満がないわけではない。しかし同時に少なからずの恩恵も受けているはずだ。

私が子育てしていた頃は、子供手当などもまだあった。公立の小学校では放課後に無料で預かりもしてもらえた。医療費も中学生までは無料。
いつも子供を遊びに連れて行った公園も、遊具が揃っていて、しっかりと管理されていた。
これもすべてその土地の税金で賄われているのだと思う。
普段はあまり意識していないけれど、日本という国はとてもきれいで、住環境が整っている。
それは当たり前のことではなく、私たちが税金を納めているからこそなのだ。

もしもすべての人がふるさと納税をしてしまったら、自分の住む街の税収は当然減ることになる。実際に私が住む街も年間で数十億も減収しているという。
本来入るはずのお金が流出することによって、自分の住む街での暮らしに影響が出れば、いくら自分だけが節税できたとしても、結果的にはメリットがないと考えてしまうのだ。

ふるさと納税をしない理由は、ただそれだけ。

正直言えば、税金が軽くなり、おまけに美味しいお肉などを頂ければ嬉しいに違いない。
わかっているのだけれど、それに釣られて我が街に落ちるはずの税金を流出させてはいけないという、意地のようなものもあったりする。
「ボロは着てても心は錦か?」
亡き父によく言われていたことを思い出す。私の融通のきかない性格を揶揄しての言葉なのだけれど、たとえ自分が多少なりとも損をしようとも、自分にとって納得のいかないことには歩み寄れないのだ。

どうせ納税するのなら、自分の暮らす街に。
そんな気持ちと頑固な性格は、美味しそうなお肉を諦めるに十分な理由となっている。



ふるさと納税をしない人は、経済にうとい、意識が低いなど、そんな意見を見聞きすることがあるのだけれど、その度に私は悶々とした気持ちになる。
それはふるさと納税をする理由と同じく、しない理由というものもあるからだ。
実際、私の周りではふるさと納税をしている人はほとんどいない。
類は友を呼ぶだからなのか、親しい友人は皆「どうせなら自分の暮らす街に納税したい」と考えている人がほとんどだ。

「したいけれど面倒」、「したいけれどよくわからないからしない」「ふるさと納税?なにそれ?」

そんな理由でしないのであれば、うといだの意識が低いと言われても納得がいくけれど、あれもこれも一緒くたに、ふるさと納税を活用することが素晴らしいことだと言うのは少し違うと思うのだ。

確かに私はお金に対してはとても無頓着なところがあり、基本的には「金は天下のまわりもの」と思っている。
そのため投資諸々も私にとってはギャンブル同然で、大きく張っては外して一文無しなんてことになる可能性があるので敬遠している。
唯一、積立NISAくらいは満額入れてはいるけれど、それは投資というよりも貯蓄の感覚だからできることだ。

融通が効かない頑固者、へそ曲がり、天邪鬼、、、そんな生き方はやはり損をするようだけれど、損をすることよりも自分の信念の方が大切という場合もある。



ただ、来年はこの「ふるさと納税」というものをしてみようかと考えている。

それは、今年は夫が単身赴任となり、別の街で暮らすようになったからだ。
話を聞いていると、地元の方々にも親切にしてもらっているようだ。日々、不自由なく暮らせているということは、その街からも恩恵を受けているはずなのである。そうなると、お話は違ってくる。

まだどの程度の納税にするか詳しくは決めていなのだけれど、我が家の稼ぎ頭が夫と考えれば、満額納税してもいいくらいだ。しかし私を含め子供達の暮らす街にも納税しなければフェアではない。

それより、なによりも問題は返礼品だ。きっと私が選ぶものは食べ物になるだろうから、それらがもしも要冷蔵・冷凍品であったら、果たして我が家の冷蔵庫に収まるのだろうか?
今でさえ、年末年始のご馳走にと取り寄せたお肉や魚介に冷凍庫を占領され、アイスクリームすら入る余地がないのだ。
そんな状態の時にどっさり返礼品が届いてしまったら。。。
ゆっくり味わうどころか、とにかく消費しなければと躍起になることだろう。
これではせっかくのご馳走も台無しだ。

では、食べるものではなく、別のものにすればいいのでは?とも考える。
例えば生活雑貨などがあるけれど、これは自分なりにこだわりがあるので、使い慣れたものを自分で買いたい。

まだ十分にリサーチはできていないのだけれど、返礼品として一番いいのは、今のところどう考えても食べ物なのだ。
どうせ何十万もふるさと納税するのなら、少しは返礼品によって心躍らせてみたいとも思う。。。

これはなかなか難しい。。。ふるさと納税もすればいいというわけではなさそうだ。

これまで自分とはまったく無縁であると思っていたので、詳しく調べてみたことはない。まだまだお勉強しなければいけないことが山ほどありそうだ。
夫の赴任期間がどれくらいになるのか、今の時点では未定だけれど、来年はその街にいくばかのふるさと納税をしてみようと思っている。
それまでに、リサーチしておくことにしよう。

どんなに「お得だ!」という声が耳に入っても、決してやろうと思わなかった「ふるさと納税」だけれど、恩を受けたら返す。そう考えれば、天邪鬼な私でも、納得して「やってみよう!」という気持ちになるのであった。。。

初めてのアイスショー。服よりも気をつけたい手足の防寒、更年期ヴァージョン。

先月のこと、知人のご好意で初めてアイスショーを観る機会があった。
世界のトップスケーター浅田真央さんのショーだ。
特にフィギュアスケートに興味がなくとも、世界有数のアスリートを生で観覧できるとあって、行く前からとても楽しみにしていた。

しかしショーの数日前になると、楽しみよりも別の心配事が頭を過ぎるようになった。
多分更年期のせいだろう。。。

心配とは服装のことである。なにぶん初めてのアイスショー観覧だ。スケートリンクとはどれくらい寒いのだろうか?服装はどうすればいいのか?と、お得意のgoogleに聞いてみたり、あれこれ考えた。

普通なら「暖かい格好」でいいのかもしれないけれど、私は更年期真っ只中のお年頃だ。
常識では考えられないような生理現象に見舞われることも想定し、ホットフラッシュ対策など含めて考える必要があったのだ。

そして当日は、自分なりに準備をして出かけたのだけれど、真央ちゃんの完璧なスケーティングとは大違い。私の方は決して万全とはいかなかった。
散々考えたにも関わらず、意外な盲点を突かれたのだった。

しかし何事も経験だ。アイスショーはこれが最初で最後だとしても、極寒シチュエーションでは何かしらの役に立つことだろう。
そう思っていたところ、来年また別のアイスショーを観に行こうとのお誘いを受けた。

数ヶ月先の予定なので、忘れる可能性大ということで、備忘録として今回の反省点と対策となり得ることを残しておこうと思う。



まずは服装。
きっと下半身が冷えるだろうと、足首近くまである長いウールのロングコートを選んだ。
本来ならロングのダウンジャケットが一番なのだろうけれど、私は更年期真っ只中ゆえに、ダウンコートは着ないことにしている。
突然、猛烈な暑さに襲われるなどした時に、ダウンを着ていては暑すぎる、脱げば今度は寒すぎると温度調節に難航するからだ。

ウールのコートの下にはカシミヤのセーター、その下には長袖のTシャツを着た。更年期の暑さがなければその下にヒートテックを重ねたいくらいだったけれど、暑さが怖くてそこまでは手が出せなかった(笑)
しかしウールのコートは街中では問題ないけれど、さすがにスケートリンクでは寒すぎる。そこでなにか簡単に脱ぎ着できるものはないかと考え、これだ!と思ったのが、UNIQLOのライトダウンだ。
短いものは持っていたけれど、お尻がすっぽり覆われるものの方が暖かいので、早速UNIQLOでロングのライトダウンベストを買ってきた。お値段は確か7000円でお釣りがくるくらいだったと思う。

これならば暑ければライトダウンを脱いで、クルクルっと丸めれば鞄に収まってしまう。恐ろしく小さく圧縮できるのが、このダウンの最も優れた点の一つである。

ボトムスはスリムジーンズにした。しかしそれだけではない。UNIQLOへライトダウンを買いに行った時、とても薄いヒートテックのレギンスを見つけたのだ。
ジーンズの下にこのヒートテックレギンスを履けば万全だ。
内側にボアのついたパンツがあるので、そちらの方がよかったかとも思ったけれど、ここはコスパ重視でお安い方でよしと思うことにした。

さらに首元もガードしておいた方がいいと、普段使いしている大判のカシミヤマフラーも加えた。



そして迎えた当日。
会場の最寄駅へ向かう電車の中ではさすがにライトダウンは脱ぎ、駅から会場へ移動する際にタクシーの中で着用した。

私としては万全であると思っていたのだけれど、それではまだ不足していたのか、会場へ入る前に知人が足元にかけるブランケットを貸してくれた。
膝掛けといったサイズのモコモコとしたブランケットは温かく、もはやライトダウンなどいらないのではないかと思えた。

ところが、会場に足を踏み入れると、一瞬でひんやりとした空気に包まれ、氷の神様から「みくびるでない」と言われた気がした。

やはり寒い。。。
ものすごく寒い。。。

ライトダウンやヒートテックは必要だった!
自分の備えを褒めてあげたいような気持ちで、当てがわれた席へ行くと最前列だった。
ショーを観ると言う点では最高の席だけれど、足元のすぐ先はアイスリンクだ。
冷たく光る白銀のリンクを前に少し怯んだ。。。

コートの下に着たライトダウンのボタンをすべて閉め、さらにウールのコートを身体にギュッと巻き付け、ブランケットで腰から足首までを覆った。
首元にもたとえ少しの冷気も入り込まないよう、マフラーをグルグルと巻いた。

ショーが始まるまでの15分ほど、じっとそのままでいたけれど、まったく寒さは感じなかった。
借り物のブランケットという援軍はあったものの、自分なりの備えとしては間違っていなかったと確信した。

やがてショーが始まり、寒さも感じないままに没頭していたのだけれど、1時間ほど経つと手足の先が冷たくなってきた。
手袋を持ってくるつもりだったのだけれど、服装に気を取られて忘れた。。。
しかし手はポケットに入れていたら、じきに温かくなった。

問題はつま先だった。今から思えば靴にソックスだけというのは、あまりに無防備であった。
足の先がジンジンと冷え切り、次第に感覚がなくなってきた。



どこか身体の一部に寒さを感じると、体全体が薄寒く感じるようになる。しかし、どうにもできない。
ブランケットで足首まではカバーできても足の先までは無理だ。
一番氷に近い場所にいるつま先が、無惨にも寒さにさらされていたのだ。
せめて厚手のソックスにすればよかったと思ったものの、若い頃、スキーへ行った時のことを思い出した。専用の分厚いソックスを履いてもなお寒かったではないか。。。

ではどうしたらつま先を寒さから守れるのだろうか。。。思いついたのがムートンブーツだった。
厚手のソックスを履き、ムートンブーツでカバーするのが一番だ。
家には最近履かなくなったUGGのムートンブーツが何足がある。なぜあれを使わなかったのか、ショーが終わってから、ジンジンする足の冷えを感じながら下駄箱に入れっぱなしのUGGを思った。

私が危惧するべきは、ボディーの防寒ではなく、手と足の先だったのだ。
もちろん身体も暖かい服で覆われていなければいけないのだけれど、これは色々とチョイスがある。
会場に来ていた人達の服装を見たところ、ほとんどの人がロングのダウンジャケットを着用していた。
ただ人によって体感温度は違うので、各々適した服を選べばいいだけだ。基準としては真冬に外で数時間ぶらぶらすることを考えた服装でいいだろう。
私のようにダウンジャケットでなくても、重ね着をするという手もある。

しかし足先とは、おおかた感じ方に違いはないだろう。
スケート観覧などに行き慣れた人や、雪国育ちの方なら想像はつくだろうけれど、私のようにアイスショーとは無縁で、東京でぬくぬくと生まれ育った者からしたら、手足の冷えは全くの盲点であった。

アイスショー観覧で決して忘れていけないもの、それは手袋とムートンブーツであるという教訓を得た。

小ぶりのブランケットもあるといいだろう。ただし、マイカーならいいけれど、公共の交通機関を使う場合は、荷物になるのでちょっと無理そうではある。

つま先が割れるようにキンキンに冷えていたけれど、浅田真央さんのスケーティングもショー自体も素晴らしく楽しいものであった。
楽しく夢中になって観覧していたからこそ耐えられた冷たさだったのはいうまでもない。

それでも次回こそは、寒さ知らずでショーを楽しみたいと思うのであった。。。