In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

今年も豆まきなし、恵方巻きも食べない節分。天邪鬼ではなく老後の生活を考えた賢い選択ということで。


恵方巻きの代わりに巻いてるイメージで桜餅の写真を無理矢理(笑)

今日は2月3日で節分だけれど、私は豆もまかないし、恵方巻きも食べない。
子供達がまだ幼い頃は、普通のご家庭並みに夫を鬼にして、盛大に豆まきを楽しんだものだけれど、さすがに子供が成人した今は例え私がその気でも、誰も付き合ってはくれないだろう。
私も豆まき後の掃除をしなくて済むので幸いだ。

では、恵方巻きくらいは食べるのではと考えるところだけれど、これもまたパスだ。
私は生まれてこの方、一度たりとも節分に恵方巻きを食べたことがない。
いたずらに恵方巻きまがいのキンパ(韓国海苔巻き)などを作ってみたことはあるけれど、それとてどっちの方角を向いてなど面倒なことはしなかった。細く切って、一口ずつお上品に食べただけだ。

節分のたびに書いている気がする恵方巻きだけれど、いつから東京の人間が恵方巻きで大騒ぎするようになったのだろうか?
少なくとも子供の頃は、恵方巻きなど聞いたこともなかった。

これは周りの友人にも確認してみたことがあるのだけれど、誰一人として子供の頃に恵方巻きを食べた経験を持った友人はいなかった。

最近、友人と会った際、恵方巻きの話題になった。数人いた友人達は全員生まれも育ちも東京で、恵方巻きを知らずに育ってきた面々だ。
しかし、その中の数人は恵方巻きを食べるようになったと話していた。

「ここ、5年くらい?あちこちに並んでるから一応流行にのって食べることにしたわ」

「願いが叶うらしいから、一応食べておくことにしたわ」

「自分だけに福が来ないは損するから、一応食べているわ」

みんな、「一応」食べるようにしているらしい(笑)



そもそも恵方巻きがこれほど騒がれ始めたのはいつだったのか、少しだけググって調べてみた。

元々大阪発祥の風習で全国区となったのは、コンビニのセブンイレブンが仕掛けたことからだそう。
西の方から徐々に販売エリアを拡大し、全国展開されたのは1998年とのことだ。
今から25年も前に全国区となっていたとは。。。
当時、私は結婚はしていたけれど、まだ子供もおらず、海外と日本を行ったり来たりしていた時期だ。そのせいで恵方巻きなるものが東京まで進出してきたことを知らなかったのかもしれない。

さらに調べてみると、本格的な流行は2004年頃になってかららしい。今から19年前だ。
私の記憶はこの頃になると、常に子供を連れての行動が中心になる。何かを思い出そうとすると、必ず子供の行事などに照らし合わせることになるのだ。

その当時、長女はちょうど小学生になったばかり。いよいよ我が家も日本に落ち着こうといった時期だった。
思い出してみれば、確かにこの頃から恵方巻きをちらほら見かけるようになったかもしれない。

ただ、私は恵方巻きを知らずに育っていたので、自分がすべき行事ではないと思っていたのだろう。恵方巻きを買うことはなく、まったく注意を払うこともなかった。

さすがに昨今はデパ地下でもコンビニでも、さらにはお菓子屋さんですら恵方巻きを模したお菓子を販売するようになったので、多少は目を向けるようになった。
常に美味しそうなお菓子を探しているので、たとえどんな形をしていようが、それがちっともお菓子らしくなくても、一応は凝視してみることにしている。
ここでもまた「一応」だ。

結局、目を向けるも、私はいまだにお菓子も含めて恵方巻きに手を伸ばしたことはない。

しかし、もはや節分といえば、豆まきよりも恵方巻きの方がメインになりつつあるくらいだ。
友人の言うように、もしかしたら食べてみたところ、とんでもない福を呼び寄せ、願いが叶ってしまった!
そんな事態になる可能性も完全には否定できない。何事も試してみないことには、結果はわからないものだ。

今年はもう遅い。今日の東京は朝からどんより曇り空であり、とても寒い。
今からわざわざ支度をして、デパ地下などに乗り込む気力もないので、今年もまた豆まきも恵方巻きもない節分確定だ。



もしも来年の節分で、この「もしかしたら福がくるかも」という気持ちを忘れなければ、お試ししてみようかなという気持ちもあるけれど、先のことはわからない。

元来の天邪鬼なので、周りがみんな「恵方巻き!」と騒げば騒ぐほどその逆をいきたくなるのだ。
こんな性格は、実はとっても損をしているのではないかと思うことがしばしばある。

バレンタインデーに向けて、各百貨店で開催されているチョコレートイベントなどもそうだ。
毎年楽しみにしていたものだけれど、昨今の人気ぶりに、ぶらりと買いに行けなくなったこともあり、すっかり背を向けている。
珍しいチョコレートが一堂に会する絶好の機会に、自ら背を向けるとは、実は損をしているような気にもなる。
どんなに流行しようが、自分が好きで求めるものであれば足を運べばいいものを、それをよしとしないのは、やはり損をしているのかもしれない。。。

そうしたお菓子関連の催事が行われるたびに、ウズウズとしてしまうのだけれど、やはり今年も背を向け、背中で泣いているのだ。

こんな時に効果的なのは、節約効果を強く意識することだ。
一歩でも足を踏み入れれば、財布の紐は全開になる。昨今、お菓子の価格は一昔に比べて高騰している。「こんな機会はないから」と欲張ると、諭吉さんがひらひら〜と何人も旅立つことになる。

日本経済が冷え切ったいま、老後の暮らしを想像すると、高価なお菓子を買い漁っている場合ではないのだ。
もしも私が「これからもバリバリと働いて、いくらでも稼げるわよ!」と言える若者であるなら、どんどん消費行動に精を出したいところだけれど、もうそんな機会も気力もないおばさんだ。

美味しいお菓子よりも、老後の生活を考えよ!

そう自分に言い聞かせれば、損をした気持ちもどこかへ飛んでいくものだ。

恵方巻きも然り。

流行に乗らないのは、天邪鬼だからではなく、老後の生活を考えた賢い選択だと思えば、気持ちよく自分を納得させることができるのであった。。。

スマホを忘れて外出。不便だと思った瞬間と、スマホとの付き合い方。

時折スマホを家に置いたまま外出してしまうことがある。
ほとんどの場合、家を出て気づくのだけれど、ひとりで外出する時は取りに戻ることはない。

さすがに家族や友人、知人など誰かと会う時は、予定の変更なども考えられるので、相手のご迷惑になるといけないと取りに戻るけれど、基本的には昭和世代はスマホのない青春時代を送ってきたのだ。スマホなどなくてもちっとも困らない。そんな気持ちなのである。

しかし、実際はどうかと言えば、困ることも増えたと最近は感じるようになってきた。

まず、スマホがお財布の代わりもするようになったことだ。
私はいまだに現金主義で、お買い物は可能な限りキャッシュで支払うようにしている。以前はクレジットカードを主にしていたのだけれど、現金支払いの方が無駄遣いが少ないと気づいたので、自身の生活を守るためと、あえて時代に逆行しているのだ。

スマホのお財布機能は使わないけれど、私の場合は自然と貯まってしまったポイントがある。ポイントはお金と同じだ。お買い物ができてしまうのだから。

近隣の商業施設やスーパーなどなど。あまり気にしていない割には、精算時には必ず提示してしまうので、知らないうちにポイントが貯まっているのだ。

ポイントはつけてもらうのだけれど、それを使うのはだいたい1年に一度。ポイントが失効する直前になると、途端に「これを使わなければもったいない!」と思いはじめ、急いで使うといった具合。



先日、ある商業施設内にあるお洋服屋さんで、いいなと思ったセーターを見つけた。たまたまセール価格になっていたので、ここでポイント消費してしまおうと思った。
ところがポイントカードはずっと前にスマホのアプリに取って代わっていたのだ。当時はカードを持ち歩かなくて便利と思ったものだけれど、スマホが手元になければ意味がない。
この日、私はスマホを忘れて外出したので、ポイントでの精算ができなかったのだ。結局、セーターは買わずに店を出た。
この時、スマホのない不便さを感じたのだった。

他にも不便だなと感じたのは、すぐに記録ができないことだ。
以前はペンと小さなメモ帳は必ずバッグに入れていたものだけれど、仕事もしていない専業主婦にはもはやスマホがあれば余計なものは必要ない。
記録しておきたいことがあれば、パシャっと写真に撮っておくか、メモ帳アプリにサッと入力しておけばいい。
記憶には頼れないので、これもスマホがなければ、なす術もない。

それからブログ。
私は家でも外出先でも、ブログに書きたいと思うことが浮かぶと、すぐに「はてなブログ」のアプリを開いて、後で思い出せる要点だけをサッと書いて下書きに残しておくようにしている。これもスマホがあればこそである。

先日も信号待ちをしている時に、ふと頭に浮かんだことがあった。信号は赤に変わったばかりで、メモ書きする程度の時間はたっぷりあった。
バッグに手を入れたとき、スマホ忘れたのだっけ。。。と思い出した。

私の頭の中はいつも雑多な事柄で溢れかえって、片付いていない部屋のようなので、この機を逃すと確実に行方不明になる。そして二度と思い出すことはない。
たかがブログのネタなので、忘れ去られたとて問題はないのだけれど、自分としては後で思い出せないと、ちょっとがっかりするだ。



こんなことがあっても、相変わらずスマホを忘れて外出してもそれほど慌てたりはしない。不便だなとは思うけれど次の瞬間には「ま、いいか。。。」と思うだけだ。
50代の私は人生の半分はスマホなしの暮らしを楽しんでいたのだ。そんな意味のない自負がある。
確かにあの青春時代、もしもスマホがあったら、もっともっと楽しめたかもしれないと思うことはあるけれど、一方でアナログゆえに手をかけ時間をかけたことが、いま心の基盤になっているとも言えなくない。
アナログな時代を生きてきたことが自信になっているのだ。

例えば、大変な時代を経験してきたお年寄りは、概してその経験値や忍耐力ゆえか、肝が据わっているものだ。
ちょっとばかり例えが変だけれど、ニュースで観る、山で熊と遭遇しても顔面パンチで撃退する類いの人は、ほとんどがお爺ちゃんだ。私なら山で熊になど遭遇したらイチコロだ。。。
そんなお年寄りの足元にも及ばないけれど、少しばかり大変なことを経験すると、自然と力がつくのだと思う。

大変な思いなどしないに限るけれど、いつ不測の事態に直面するかわからない。これは神のみぞ知ることだと、心しておかなければいけないと思っている。

そんな気持ちが根底にあるせいか、意図せずにスマホには執着しないようにしているのかもしれない。。。
食べることと韓流ドラマにはあれほど執着するのに(笑)


スマホの便利さを知った今でも、子供達のように四六時中手元に置いて生活をすることはない。
家にいてもスマホを手にするのは、ブログを書く時が一番長い。次がamazon楽天などショッピングサイト巡り。
以前、Netflixなどもスマホで観ていたのだけれど、少し前に長女がリビングのTVにファイアースティックをつけてくれたので、最近はそちらで鑑賞している。



少し前に更年期による不安症、心配性についてブログに書いたことがあるのだけれど、その改善策として「寝る前にスマホでハッピー動画を観て、不安感を払拭する」ということをしていた。
最近はそちらも少し落ち着いてきたので、寝る前にスマホを手にすることはなくなった。


そんな感じなので家族や友人からのLINEを半日くらい気付かず平気で放置してしまい、急な用事の時などは電話がかかってきてしまったりすることもある。人様にご心配やご迷惑をかけるのは本意ではないので、もう少し気を配る必要は感じている。
これは50代の夫も同じで、TVも観ないしスマホを使うのは仕事の時と、連絡の時くらいだ。
ただし、その「連絡」というのがかなり頻繁なので、スマホに依存というよりも、人依存ではないかと思っている(笑)
そんな夫婦なので子供達が旅行中に隙あればとスマホを手にするのを見て、苦々しい気持ちになったりもした。
スマホではなく、この雄大な自然の美を堪能せよ!と。

そうは言っても、やはりスマホの重要性を否定することはできない。
先日乗ったANA全日空)も4月からは、チェックインから搭乗まで、すべてスマホQRコードで処理されるという。
スマホを使いこなせないと、不便以前に何もできないという社会になりそうだ。
アナログ礼賛などと言っている場合ではないのだ。

本当かどうかはわからないけれど、最近「スマホ認知症」というワードを見聞きするようになった。
スマホの使いすぎによって、脳機能が低下し、記憶力や集中力の低下、その他にも色々な症状をきたすらしい。
まるで私が直面している老化現象そのものだ。
これ以上、そんな症状が加速していくと、将来夫や子供達に迷惑をかけそうなので、やはり私にとってスマホは「あれば便利だけれど、なければないでいいわね」と、生活するに困らないい程度に使えればちょうどいいようだ。

どこかで見た人に、生きていることの喜びと感謝を改めて感じた日。

昨年末のこと、病院へ行く途中に横断歩道で信号待ちをしていたら、隣に小柄な女性が並んだ。
チラリと横顔を見た時、「どこかで見たことのある人だわ」そう思った。

病院の近くということは、かつて病院内で出会ったことのある人かもしれない。
記憶を巡らせていると、ある一人の女性を思い出した。

もう10年くらい前、私が大病のために入院した時に同室だった人だ。歳は私よりも10歳くらい上だったと記憶している。

4人部屋の私は右奥、その人は入口すぐの隣りのベッドだった。
私が入室した時にはすでにいたのだけれど、いつでもぐるりとカーテンでベッドを覆い、顔を見ることはほとんどなかった。

その部屋は4人とも同じ病気を抱えていて、深刻度から言えばその人は中ぐらい。すでに余命宣告を受けている人もいる病室の中では、まだ希望が持てる状態であると、向かいのベッドのおばさんが言っていた。

生存率の低い病ゆえ、その人が常に悲観的になり、周りとの交流を断ちたいという気持ちになるのも理解できた。
ただ、私はその病の深刻度から言えば、十分に生きられる希望があったので、悲観はすれど心を閉じることはしなかった。

人は死の可能性を目の前にしたとき、その受け止め方が違うのは性格によるものなのだろうか。それとも置かれている環境なのか、私にはよくわからなかったし、当時はそんなことすら深くは考えたくなかった。



その人はいつもカーテンの中にこもり、独り言を呟いていた。
「私はもうダメ」
「もうどうなってもいい」
「なにをしても無駄」
そんな言葉を日がな一日呟いていた。

時折、私の向かいにいた威勢のいいおばさんが、カーテンの中のその人に声をかけていた。

「病は気から!そんなんじゃダメよ」
「病気に勝つのよ!」
「そうそう簡単には逝くものか!」

普通なら「余計なお世話よ。あなたになにがわかる?」と言いたいところだけれど、深刻度から言えば、そのおばさんが一番死に近いところにいたのだ。

その病室の中で一番若く(とは言え40代)、新参者だった私はそんなやりとりをいつも黙って聞いていた。

その人には娘さんが一人いて、週に一度着替えを持って病院へ来ていた。
誰にも挨拶することなく、下を向いてスッとカーテンの中へ入っていくのが常だった。

娘さんが来るたびに二人は小声で口論していた。その発端はいつも経済的なことで、お金に関することで娘さんが不満を言えば、その人は娘さんが働かないことを責め、最後には「もういいよ」と、娘さんが怒って帰ってしまうというのが毎度のパターンだった。

聞き耳を立てていたわけではないけれど、カーテン越しとはいえ、すぐ隣なので会話は筒抜けだった。

一度、娘さんが帰ったあとに、その人がカーテンを開けて声をかけてきたことがあった。

「私がこんな病気になっても、娘はちっとも優しくしてくれないの」

「あなたみたいに、いつも一人の方が楽でいいわね」と。

私は一人ではなかったけれど、誰もお見舞いにこないので、独身の独り者と思ったのだろう。

当時、次女は小学生で長女は中学一年生だった。
私が入院する際、夫には「子供達にはこれまでと同じ生活を」とお願いしていた。病院への見舞いにも、決して連れてこないでほしいと。
病院というネガティブな空気の蔓延する場所に、子供達を触れさせたくはなかった。
夫にも、私のお見舞いに来る暇があるのなら、仕事と子供の世話に集中してくださいと話した。
夫は「せめて手術の立ち合いだけでも」と言ったけれど、それもやめてほしいと言った。
夫が手術室の外で待っていたからと言って、私がよくなるわけではない。何か不測の事態にでもなれば、必ずあなたに連絡がいくはずだから心配はないと。
その時間をどうか子供達のために使ってくれとお願いしたのだった。

嘘をつくわけにもいかないので、一応私にも家族がいることは伝え、「お見舞いには誰もこないでと言ってあるので」と、本当のことを話した。

「私は娘にどんなに酷いことを言われても、こないでは言えない。一人では怖くてたまらない」

その人から、あなたの強さが羨ましいと言われたけれど、私は強いわけではなかった。もちろん病気も怖かったし、夜になり色々なことを考えていると、ひとり涙がこぼれることもあった。
それでも一人で大丈夫と思えたのは、希望を持っていたからだ。
元気になって退院すれば、好きなだけ家族と過ごすことができると、以前と同じ暮らしに戻ることだけを考えていた。

病とはそんな精神論で治癒できるものではない。それを重々承知の上で、ポジティブな未来を信じる努力をしていた。

幸いにも私の病は完治し、あの時に信じた未来を生きることができている。
それは自分の力ではないだろう。お医者様と神様が治してくれたのだと思っている。



当時はギスギスと言うほどに痩せていたその人は、顔も丸く身体もふくよかになっていた。
なによりも驚いたのは、その表情の明るさと穏やかさだった。

検査の順番を待つ間、顔見知りの女性と笑顔でお喋りをしていたのだ。
毎日カーテンの中で呪いのような言葉を吐いていた人と同じ人物とは思えないほど、その人は朗らかに見えた。

病気というのは、身体が蝕まれれば心もまた同じように崩れるものなのだろう。そしてその逆も。。。

他の顔見知りの女性と話している内容から、その人の病気が完治しているのか否かはわからなかった。
ただ、受ける検査がことごとく私と同じだったので、もしかして私のように完治したあとも、引き続き先生の元へ通い、検診のようなことをしてもらっているのかも知れない。
声をかけるほど親しくはしていなかったので、あえて確認するようなことはしなかった。

5年生存率の著しく低い病気ゆえ、もうあの人はいないのだろうなと、時折あの頃のことを思い出しては漠然と同室であった人達の顔を思い浮かべることもあった。

しかし10年近くも経ったいま、その人はまだ生きていて、むしろ以前よりもお元気そうだったのだ。
なんだか無性に嬉しかった。。。

向かいのベッドにいた威勢のいいおばさんとは、5年くらい前にバッタリ病院で会ったことがあり、その時も「この人は自身が言っていた通り、病気に打ち勝ったのだな」と嬉しかったものだ。
それ以来、お姿は拝見していないけれど。。。

袖触り合うも多生の縁という。
人生のほんのひととき、生死をかけて共に過ごした人達だ。
知っている人とも言えないほどの関わり合いで、文字通り「どこかで見た人」と、記憶の引き出しの奥の奥にいる人だ。
それでも、生きていていてくれたこと、そしていま自分もこうして生かされていることに感謝したい気持ちだ。