具体的な出来事を書くことは控えるけれど、最近タイトルのように、人のふんどしで相撲をとろうとする人がいてモヤモヤした。
「人のふんどしで相撲をとる」とは
他人のものを利用して、身を削ったり、努力すことなしに自分の利をはかること。
Googleさんはそう回答している。
簡単に言えば、自分は何にもせずに、人を利用して得をしようという、賢いのだか怠惰なのかわからないような行いだ。
この言葉は類語も多い。
人の太刀で功明する
人の提灯で灯りをとる
他人の念仏で極楽まわり
まだまだ探せばありそうだけれど、つまりはこれほど多くの諺を有する行いであるということは、それだけ日常的に人のふんどしを履いてハッケヨイ〜っとやっている人が多いということなのだろう。
どんなに利を得られたとしても、人のふんどしなど履いて気持ち悪くないのだろうか?
どんなに素敵なふんどしだったとしても、私なら人様が一度履いたものなどお断りだ。
昔々こんなことがあった。
小学6年生のとき、修学旅行の後に文集を作るための感想文を書かされたことがあった。
家族以外の人と旅行をしたのは初めての経験だったもので、とにかく書くことが多くて、感想文は作文用紙10枚にもなった。
400字詰の原稿用紙10枚というと文字数は4000字になる。今なら少しばかりくどくどとブログを書いていれば、4000字など普通だけれど、小学生の感想文としてはなかなかのボリュームであった。
書いた感想文は学級委員長に提出するのだけれど、その分量に興味を持ったのか、学級委員長のMちゃんは熱心に私の感想文を読んでいた。
その日の放課後、私は担任のS先生から文字数超過で書き直しを命じられた。
せっかく書いたのになと思ったけれど、文集に載せるのなら仕方ない。そもそも指定文字数を無視して自己満足で書き散らした自分の責任だ。
適当に済ませ、早く帰ってサンリオショップへ『いちご新聞』をとりに行かねば!とバッサバッサと書いた文字をカットしていった。
そのすぐそばで、同じように原稿用紙に向かっていたのが学級委員長Mちゃんだった。
いつも提出物などは誰よりも早く提出し、回収する役割をしていた学級委員長Mちゃんが、まだ書き上がっていないとは意外な気がした。
それからしばらくして文集ができ上がり、それを読んだ時にその理由が判明したのだった。
なんと、学級委員長Mちゃんの書いた感想文のメインテーマは私と全く同じ。それだけなら偶然ということもあるのだけれど、結びの文章もそのまんま私が書いたものと同じだった。
最初に提出した元原稿をまだ捨てずにおいたので、検証すべく更に読み返してみると、結びどころか、いくつも同じような表現が見つかった。どれも私が少しばかり頭を捻って考えた決めの文章であったから間違いはない。
あの日、居残りをしていた学級委員長Mちゃんは、私の感想文を読んだ後に自分のそれを書き直していたというわけだ。
私にとってはかなり衝撃だった。あの優等生で誰もが認める学級委員長Mちゃんが、人の感想文を盗作(模倣の域は超えていた)するなど、まさに想定外で子供心に人の持つ二面性に恐れ慄いたものだった。
担任のS先生は「Mさんの感想文は視点が異なっていて素晴らしいので、みなさん必ず読んでみてください」と大絶賛した。
なるほど私の視点も満更ではなかったのだなと、モヤモヤしながらも一瞬自分が評価されたような気になったのだけれど、よくよく考えてみたら、それは私の書いたものだ。評価されるべきは私の感想文ではないのか?
担任のS先生は当然生徒全員の感想文に目を通しているはずなので、学級委員長Mちゃんが私の感想文をまるパクリしたのに気づいていたはずだ。
にも関わらず、それを問題にもすることなく学級委員長Mちゃんを絶賛したのは、きっと大人の都合だったのだと思う。
学級委員長Mちゃんには2つ離れたお姉さんがいて、そちらもまた生徒会長を歴任、そしてママもPTAを牛耳っていた教育ママとして知られていた。
担任のS先生からしたら、どちらを立てれば自分にとってメリットがあるのかわかっていたのだと思う。
私は寝た子を起こすようなことさえしなければ、うるさく騒ぎ立てるような厄介な子供ではなかったので、担任のS先生は迷わず学級委員長Mちゃんの側に立ったのだ。
「人がこの文集を読んだら、私の方が真似をしたように思われるかもしれないな」と、少しモヤモヤしたものだけれど、そうなったら寝た子も起きて、本当のことを言って炎上させてあげればいいかなと思った。
帰宅して父にその話をすると、「人のふんどしで相撲をとっても勝てば官軍だ。たとえ負けても自分のプライドを守るか?どちらがいい?」と尋ねられた。
「人のふんどしなんて嫌よ。自分のがいいに決まっているでしょ」と、そんなことを答えた。
父は「世の中色々な人間がいる。大人になればなるほど理不尽なことは増えていく」と、そんな世の中の不条理について話をしてくれたのを覚えている。
今思い出しても、なかなか哲学的な会話であり、そこで交わされた父との会話はのちの人生に大きな影響を与えたと思っている。
とは言っても、基本的な性格というものは、まったく変わっていないのだけれど。。。
何はともあれ、結局、文集など誰も熱心に読んでいなかったのか、たもえ気付いたとしてもそれを私に言って騒がれでもしたら面倒だと判断されたのか、特に話題にもならずに文集の存在自体が忘れ去られた。
きっとあの文集はもう残ってはいないだろう。。。卒業アルバムすら断捨離してしまう私は当然ないのだけれど、40年以上も後生大事に学生時代の文集をとっておく人はいないと思う。
文集はないのだけれど、その一件は私にとって忘れ難い出来事となったのだった。
大人になると、自分のふんどしをとられているにも関わらず、そう自覚できないくらい巧妙に人のふんどしで相撲をとる人が多いことに気づく。
悪く言えば、知らず知らずのうちに搾取されているような感じだ。
紛らわしいことに、ふんどしの貸し借りというケースもある。これが同じクオリティーのふんどしならWIN WINというケースもあるのだろうけれど、人のふんどし族は自分のふんどしは粗末なものなのに、う◯い棒一本つけるから交換しよ!と、高価なふんどしと交換しようとする。
う◯い棒は美味しい。しかし安い。ここが問題で、安いとわかっていても、とってもお腹が空いていれば、お腹を満たすために交換してもいいかな。。。と、思ってしまうところだ。しかし人のふんどし族からしたら、損して得取れとばかりに安価なう◯い棒で釣り、自分はそれ以上の利を得ようとする。
上手い話に乗せられてしまうのは、その人の責任とも言えるけれど、やはり狡いことをして利を得ようとする方が道義的に考えて悪だ。
世の中、本当に賢い人(狡賢い)がたくさんいる。
それは父が言っていたように、大人になればなるほど多くなる。
善人でありたいと思っていても、時には悪には悪で対抗しなければいけないこともあると知った。
様々な経験を経て、いまは人のふんどし族の見分けがつくようになったのは幸いだ。
ふんどしを取られる前に、ひらりと身をかわして、まるで出会わなかったように振る舞うことも覚えた。
それでも、人のふんどしでハッケヨイ〜とやっている人を見ると、少なからず憤り、こんなブログを書いてしまうのである。
日本もいまや先行きどうなることやらと危惧するような社会になっている。そうなるとますます人のふんどし族が増えそうだ。
いかに楽にをして利を得るか、プライドではお腹いっぱいにはならないのよ!と、節操なく人のふんどしを履きまくる輩がニョキニョキと出てきそうだ。
それでも正しく努力する者は救われると信じたい。ただ、真面目なだけではいけない。大切なふんどしをとられないように知恵を働かせることも必要だ。
善人ではありたいけれど、自分を差し置いてまでも人を救おうなどという立派な人間ではない私は、ふんどしを掠奪されぬよう、今後も気を張って生きていこうと心した一件であった。