ちょっと古いのだけれど、『King Gnu』の『白日』という曲の中に「今の僕には何ができるの?」という歌詞がある。
長髪に髭を蓄えた、ちょっとばかりワイルドな雰囲気の男性が歌う姿を見て、思い出した人がいた。
30年以上前のこと。まだ私が20歳くらいの時、お世話になっていた知人から誘われた食事会で出会った人だ。
時はバブル期で、周りにいる大人達は無理にでもお金を遣う必要があったのか、美味しい物を食べに連れていってもらうことは珍しくなかった。
その食事会には何人かのおじさま方がいて、みんなビジネスの話ばかりして、私はなぜ自分がその席に座っているのか不思議だった。
それでも特に居心地が悪いというわけでもなく、なによりも自分一人では決して足を踏み入れることのないようなお店で、美味しいものが食べられることが嬉しかった。
私のような子供とビジネスの話などしようとは、最初から期待されていない。
そんなことは分かりきっていたので、私は誰に気を遣うこともなく、美味しいお料理を楽しんで帰ろうと思っていたのだ。
そこにいた誰とも利害関係を持たない私は、ニコニコと愛想を振りまく必要もなく、むしろ「誘われたから、来てあげたのよ」と、若さ特有の傲慢さ丸出しの態度だったかもしれない。
あの頃の自分に、もし会ったら、軽くお説教をしてあげたいくらいの可愛げのなさだ。
そんなビジネスランチのような席で、私以外にも、もう一人場違いと思えるような人がいた。誰が連れてきたのかはわからない外国人の青年だった。
当時、私は海外へ渡る前で、英語など話せるわけもなく、話す努力すらしようなどとは考えなかった。
異端という意味では、その場で同じ立場であった私たちだったけれど、不幸なことに相手も日本語が話せない人だったのだ。
ちょっと気まずさを覚えはしたけれど、気にしたところでどうにもならないと無視をしていたら、「席替えだ」と突然隣に変わったおじさまがやってきた。
「僕はね、仕事が好きじゃないから、あっちは退屈でね」
そう言って、異端児席に逃げ込んできたのだ。
年齢は多分40代くらいだったろうか。
仕事はマスコミ関係で、自分の会社を持っていると話していたように記憶している。
ウェーブのかかった耳を覆う長髪に髭をたくわえた、おしゃれな雰囲気の男性で、20歳そこそこであった私にとっては、初めて出会うタイプの大人だった。
そのおじさまは流暢に英語を話した。外国人青年はようやく話し相手ができたとばかりに、先ほどまでの恐縮した姿は何処に?というくらいに、私のわからない言葉を話し続けていた。
そんな中、私は会話の内容もまったくわからないので、淡々とナイフとフォークを動かしていた。
おじさまは、時折私に顔を向けて「ね!ね!」と笑顔を見せたのだけれど、なにが「ね!」なのだかわからない私は、相変わらずニコリともしない。
そこでようやく私が英語を理解しないことを知ったようだった。
おじさまは「ごめんね。僕の気遣いが足りなかったなぁ」などと言ってくれたけれど、きっとおじさまの世界では、英語が話せるのは日本語を話すのと同じくらい当たり前のことなのだろうとわかった。
「私のことはお気遣いなく。美味しいものがいただけるだけで楽しいですから」
私はそう応えたのだれど、おじさまは気を遣って日本語と英語、両方を使い、異端児二人に色々な話をしてくれた。
ヨットの話や万年筆の話、おすすめのレストランや外国の話。。。
多分、自分の趣味についてのあれこれだったのだろう。
自分のまったく知らない世界を知ることは楽しい。今でさえそうなのだから、無知であった若い頃は尚更そう思っただろう。
おじさまの話がとっても楽しくて、お料理の味を忘れるほどだった。
次第に外国語を流暢に話すおじさまの姿に、羨ましさを感じ、
「どうして英語が話せるのですか?」
そんな変な質問をしたところ、
「面白そうだから海外へ行ったら覚えちゃった」
そんな答えが返ってきた。
「すごいですね」という私に、
「すごいことなんてないよ。僕はね、好きなことをしていただけだから」
そんな風に笑っていたけれど、きっと裕福な生まれなのだろうなと、その時感じた。
それは、そのおじさまがいつも自分のことを「僕はね」と、「僕」という言葉を使ったせいなのだと思う。
大人の男性なら「私」とか「俺」という人がほとんどだった。
自分を「僕」と呼ぶのは小さな男の子だけというイメージがあった。
それが、40代の立派な大人の男性が「僕はね」と、当たり前のように口にし、それがとても自然に思えたのは、その人から見える育ちの良さのようなものなのかもしれないと思ったのだ。
以来、稀に自分を「僕」と呼ぶ男性と出会うと、その人が何をしていようがどんな風貌であろうが、なんとなく生まれのいい人なのだろうと思ってしまうようになった。
『King Gnu』の歌が流れるたびに、自分を「僕」と呼ぶ男性を懐かしく思い出す。
当時40代なら、今はもう70代になっている。今でもきっと自分のことを「僕」と呼んでいるのだろう。。。
余談だけれど、のちに私がイギリスへ渡り、英語を学んだのも、直接の理由は別のところにあったのだけれど、その入口になったのは、間違いなくこのおじさんの影響だろう。
「他言語を理解すれば、自分の世界が広がるよ」
その一言が、私の目を違う方向に向けたのだとすれば、いまの自分の幸せも、おじさんの蒔いてくれた種が開かせた、小さな花なのかもしれない。