In other words

I really don't know life at all ...

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英語力は必要か?改めて考えるきっかけとなった外国人おじさんとの遭遇。

先日のこと、家を出たところで、近所に住む夫の友人にばったり出くわした。
以前、夫と一緒の時に一度お会いしたことのある方で、先方も私のことを覚えていたらしい。
「Hi 」と笑顔で声をかけてきた。

夫は外国人なので、当然友人関係のほとんどは国籍は異なるものの、みんな欧米系の外人おじさん達だ。
日本人の友人もいるけれど、それはほぼ仕事関係で知り合った人たちで、果たして友人と言えるような関係なのかは疑問だ。

先日会った外国人のおじさんも、どこのお国の人であったか?
ドイツ人だったような気もするけれど、私からするとネイティブと変わらない英語を話すので、正直なところよくわからない。もちろん夫に尋ねればわかるのだけれど、そこまでの興味もないので誰と会っても国籍を尋ねることはまずしない。

その外国人おじさんと私とでは、共通の話題などないものだから、当然夫のことを話すことになる。
「彼は元気にしている?」
「忙しそうだね」などと、ありきたりな事を尋ね、私がそれに答えるといった感じで会話が進んだのだけれど、途中であちらの近況なども聞いてあげた方がいいかしら?などと、一人前に日本人らしい気遣いを見せようと、「ホリデーは日本で過ごしたのですか?」などと、尋ねてしまったものだから、また話が長くなってしまった。

嫌いな相手ではないし、とても感じのいい礼儀正しいおじさんなので、会話をしていても嫌な気分になるようなことはないのだけれど、問題はその会話が英語でなされるということなのだ。

何十年も日本で暮らしている外国人でも、ほとんど日本語を話さない人もいる。
相手が日本語を理解できるのか否かは、尋ねなければわからない。
稀に自分からペラペラッと日本語で話してくれる人もいるけれど、ほとんどが当たり前のように英語で話すのだ。

「あなたは日本語を話せますか?」
もしも自分が英語を理解できないのなら、そう聞くこともできるけれど、相手は私が少なからず英語が理解できる事を知っている。そんな時に「あなたは日本語できる?」などと言ったら、なんだかマウントをとっているかのように勘違いされるかもしれない。。。
そんな風に変な気を遣ってしまうのだ。

そこで、30年以上もほぼまともに使っていない英語を、頑張って話すのだけれど、これが何だか面倒くさいのだ。

先日もそんな感じで、頑張って立ち話をしたのだけれど、それだけでドッと疲れてしまった。



外国人おじさんと別れた後も、色々と考えてしまった。
20代から30代まで、日本と海外を行ったりきたりしていたけれど、この20年以上は観光客として旅行へ行く以外、ずっと日本で暮らしている。
これからも余程のことがない限りは、生涯日本で暮らそうと思っている。

日本で暮らすのだから、英語など必要ないわと、これまで自身の英語力をブラッシュアップすることもなく、ただ海外旅行で、困らなければいいわとお気楽に構えていた。
実際に困ったなと頭を抱えるような事態になったことがないものだから、余計に勉強しようなどという気にもならなかった。

ただ、先日のようなことがあると、時々「やはり、日本にいても英語力は必要?」と思ったりするのも正直なところだ。

私は目的がなければ努力できない人間だ。そこに明確な目的があれば、とことんのめり込み、達成すべく努力ができるのだけれど、それがないとまったくエンジンがかからない。

英語の習得もそうだった。。。
若い頃、ろくに英語も話せないのに海外で暮らしてみようと思い、日本を飛び出したのはいいものの、現地(イギリス)へ行ってとにかく大変な思いをした。
英語が話せないことで、悔しい思いをすることの連続だった。
そこで掲げた目標が、「理不尽な目にあったとき、相手と対等に戦える英語力を身につけること!」だった。

それから1年間はとにかく猛勉強した。徹底的に単語と文法を頭に詰め込み、実際の英会話はパブやネイティブのフラットメイトとの会話で鍛えた。
おかげでその目標は達成され、快適な海外暮らしをエンジョイすることができた。
しかし目標達成後は、今に至るまで30年以上まったく英語の勉強はしていない。

言語というのは使わなければ錆つくものだけれど、幸いなことに夫が英語を母国語とする外国人なので、まったく英語に触れない生活を送ってきたわけではない。
夫は日本語ができるので、夫が英語で話しかけてきたら、私は日本語で答えるという形だ。
子供達は私とは日本語で話しているけれど、夫とはよく英語で会話をしているので、私の耳には知らず知らずのうちに英語が入ってきているといった状態だ。

そのおかげで、英語を完全に忘れてしまうことはないけれど、やはり二十代で詰め込んだ半分は消え失せている。

海外旅行程度なら困ることはないけれど、小難しい単語の飛び交う難しい会話ともなると、もはやちんぷんかんぷんで、家族団欒中に私だけが「それどういう意味なの⁉︎」などと騒ぎ、子供達から「理解できないの?」などと馬鹿にされる始末だ。
それでも私は「ここは日本よ!英語は二の次!」と胸を張ってきた。

しかし日本で暮らしていても、外国人と接して英語を話す必要があるのだから、開き直ってばかりもいられない。
苦労するのは自分なのだ。。。



夫はよく友人を家に招くのだけれど、そんな時は食事の支度などでキッチンに逃れられる。ただ、食後のお茶やお酒になると、キッチンにこもっているわけにもいかない。
多少は社交性をお見せしなければと、ここでもまた日本人らしい気遣いにとらわれ、脳疲労を感じながら笑顔で会話に参加するのだ。
ただニコニコと頷いていればいいものを、そこに少しでも日本バッシングなどが見られると、まるで「ニッポン代表!」のように、無謀なディベートを仕掛けるという愚かな真似までして、余計に疲れてしまうのだ。

外国の方々はつくづく討論が好きだなと思う。どうでもいいことを、捏ねくり回し、ひっくり返しでああでもない、こうでもないと議論するのだ。
あなた方がそんなにムキになって語って、なにが変わるの?などと思うのだけれど、我が国に対して批判めいたことを口にされると、こちらもムキになってしまうのだ。
そんな様子を見て子供達などは「好きに言わせておけばいいじゃない」と、冷ややかな反応だけれど、私はついついムキになってしまうのだ。

こんな時、日本語なら簡単に論破できるのに!私にもっと英語力があれば!と思う。

これをモチベーションとして、再び英語学習に取り組めばいいのだけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、客人が帰った途端にそんな必要性は感じなくなる。
そんなことの繰り返しなのだ。

最近は夫が長期出張で家を空けているため、夫の友人知人が我が家にやってくることはなくなった。
しばし平穏な日々が訪れたとばかりに、すっかり英語のことなど遥か彼方へ飛んでいった。

しかし、まだ近隣で遭遇するという危険が隠れていたのだ。
私の住むエリアはとにかく外国人率が高く、聞けば住人の10%は外国籍だという。
我が家の夫のように何十年も日本の同じ場所で暮らしていると、それなりの外国人コミュニティーもできるものだ。
仲良くしていなくても、顔見知りはそこら中にいる。

夫と一緒に歩いていると、そんな友人知人達とばったり会うことは日常茶飯事で、その度に夫から「この人はね」とご紹介してもらうものだから、こちらの面もすっかり割れてしまった。

まさか英語での会話を避けたいがために、下を向いてコソコソ歩くのも馬鹿らしい。
ここは私の国、日本なのだ!
胸を張って歩かずどうする⁉︎

結局のところ、英語での会話が苦痛ならばしっかりブラッシュアップするか、さもなくば「ここは日本だ!」と開き直り、下手な英語で押し通すかの二択なのだろう。

ご近所の外国人おじさん達は、もはや英語学習の強いモチベーションにはならない。
そんなわけで、私はこれからも少しだけ気まずい思いをしながらも、下手な英語で押し通していくことになりそうだ。