In other words

I really don't know life at all ...

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子供の自立と自身の老後。子供の世話になる老後はありか?


少し前、我が家の長女が家を出て一人暮らしを始めた。家を出たとは言っても、車で10分程度の距離なので、いつでも行ったり来たりできるご近所自立だ。
それでも同居しているのとしていないのでは大違い。気分的にも何やら一仕事終えたような爽快感がある。

長女は無事に自立してくれたので、残るは大学生の次女だけ。あとは3年半、大学を卒業するまで学費と生活費の面倒を見れば、私達夫婦の子育ても完全に終わる。

結果はどうあれ、大学を卒業するまで、親としてできる限りの衣食住の面倒、教育費の支払いをコンプリートできれば、親としての役目を果たしたと判断していいと思う。

子供二人を育て上げるのは、とても大変なことだ。
時間も手間もお金も、どれだけ必要なのかと途中途中で不安になるほどだった。

どんな親でも子供にはできる限りの育成環境と教育を与えたいと願うものだ。
しかし、教育費というのは、かけようと思えば際限がない。どこかで妥協しなければ、それこそ破産しかねないほど、湯水の如く流れ出していく。

我が家も子供の特性によって、受ける教育を選んだ結果、かなりの経済的負担を負うこととなった。

高校卒業までは公立、大学も国立なら少しは負担も軽くなるだろうけれど、必ずしも子供達がそれを望むとは限らない。
我が家もそうだった。私立校やインターナショナルスクールなどを選んできたため、教育費は想定をはるかに上回る額となってしまった。
幸いなことに次女は国立の大学へ行ってくれたので、かなり学費は軽減された。
とはいえ、それまでの教育費が重過ぎて、そのダメージは未だに消えていない。





子供を何某の人物に育てたいなどという気は微塵もなく、ただ本人達がやりたいこと、進みたいと望む道へ進めるようにした結果、とんでもなく教育費がかかってしまったということだった。

時に夫のお給料だけではまかないきれず、私の貯金から教育費を出したりしたことも少なくない。

そこまでして身分不相応、家計管理がなってない!と思う方もいるかもしれないけれど、私はそうしてまでも、子供にしたいことをさせてあげたかった。
それは自分がかつて親にしてもらったことであり、それが今の幸せに繋がっていると信じられたからだ。

老後のための資金になると思っていた貯蓄もかなり目減りした。
さすがに私は不安になってきたけれど、夫自身は少なくとも、あと10年は働くだろうから問題ないと楽観している。
確かに教育費の負担も来年からは次女1人分だ。国立の学費は私学の半分以下。
これまで子供の教育に関する補助的なものはあっても、所得制限付きでその恩恵を授かることはなかった。
ここでようやくその悔しい思いを晴らすことができたので、少しは税金を払う意味を見つけられた気がする。

それはともかくとして、バイトなどで学費、交通費以外は自分で工面できる年齢なので、子供にかかるお金は大幅に軽減されてきた。

残りの10年で安心できる程度にまで貯蓄を増やし、夫と二人でのんびり遊んで暮らす老後が目標だけれど、計画した通りにいくとは限らない。

何事も一寸先は闇である。





長女の引っ越しに際して、新生活の買い物や引っ越しの手伝いなどで、長女と過ごす時間が多かったため、忙しいながらも、普段はしないような話をゆっくりとする時間を持つことができた。

話の所々で、前述したような事情もふまえ老後不安を口にすると、「心配しなくて大丈夫。もし困ったら私が面倒みるから」という言葉が返ってきた。

なんと頼もしいことか、しかし感謝はすれど、そう簡単に好意を受け入れるわけにはいかない。
親子だからこそ、自立したらお互いに持ちつ持たれつは避けたいと私は考えている。

自分は自分の人生が、子供には子供の人生がある。

親が子供に対して犠牲を払うのは構わない。それは産んだ者の責任だからだ。
しかし子供は決して親の犠牲になってはいけないというのが私の持論だ。

これは私と実母のこれまでの関係から生まれた考えだった。
実母は経済的な面では問題ない。持ち家に住み、十分に貯蓄もあり、年金もかなりの額貰っている。
お金の面では面倒を見る必要はない。
幸いなことに身体の方も元気だ。多くの後期高齢者が介護を必要とする中、実母は80を過ぎても自分のことはなんでもできる。
その点は感謝しているけれど、それだけではない。

昔から何か厄介な事が起こると、当たり前のように私に丸投げしてくる。
他の兄弟にではなく、結婚により家を出た私にだ。





実母はいつもそうだった。大変なことがあると、私にどうにかしろと丸投げし、あとは知らん顔だった。
他の兄弟に対しては「家を継ぐべき人間は大変なのだから」という理由で、厄介事からは遠ざけたいと、大変なことから常に守ろうとしていた。
その皺寄せがすべて私にきたというわけだ。それは今も変わらない。

父が亡くなったとき、私は相続する権利を放棄し母と兄弟にすべてを渡した。
それは私が外に出た人間だと自覚していたからだ。
同時に実家で起こる厄介ごとには、今後一切巻き込まないでほしいという意思表示でもあった。

実母も兄弟もそれに対して異論はなく、当たり前のように受け入れたと思っていたのだけれど、未だになにかあると、真っ先に私のところへくるのだ。

身体が不自由であるなら娘として面倒をみてあげるのはわかるけれど、80を超えてもどこも悪いところなどなく、ピンピンしている。
私の方が病院のお世話になる機会が多いくらいだ。

こちらの都合構わず、なにかというと厄介ごとを持ち込み、子供なら親のために動いて当然とばかりに、面倒なことは全て押しつけてくる。
そんな姿を見せられ続けると、私は子供にそんな思いは決してさせまいと思うのだ。

子供の足枷になど、なにがあってもなりたくない。たまに美味しいお菓子をプレゼントしてもらったり、素敵なレストランに連れて行ってもらうくらいは許容範囲だけれど、生活の面倒を見てもらうなど、真っ平御免だ。

そんなに困ったら、お婆ちゃんでも雇ってくれるところを探して、働きに出た方がよほど気楽だ。

私の知人に、親に毎月お金を渡している人がいる。元々は旦那さんのお給料で生活していた専業主婦だったのだけれど、親にお金を渡さなければいけないからと、パートに出て、そのお給料は全額親の生活費にまわすそうだ。

育ててもらった恩というものなのだろうか、私は当事者ではないから本心はわからない。ただ、いつも疲れていて、事あるごとに「仕方ない。。。」という言葉が漏れるところを見ていると、負担に感じているのだろうと思う。
自分の子供達に、そんな思いはさせたくはない。





しかし、それは健康であったらの話だ。
例えば、病気などで動けなくなった時などを考えると、「誰の世話にもならない!」などと断言できる自信はない。

そんな状況でもしも生活に困窮していたら、子供達から差し伸べられる手を振り払えるだろうか?
プライドでお腹はいっぱいにならないのだ。

事情によっては、子供の世話にならなければいけない可能性もあるということだ。

やはり先立つ物は必要だ。

「子供の世話にはならない」

そんなプライドを守るためにも、今後10年間はせっせと貯金を増やし、どんな状況になっても生きていける経済的な力を強化しなければと、強く思う。

そして何歳になっても、自分の足で歩ける健康な身体と、気丈なメンタルを維持し続けること。

これからの目標はそれに尽きる。

これまでは漠然としか想像できなかった老後だけれど、もう少し具体的に計画を練る必要がある。

どこに住み、どんな暮らしをするか。理想とする暮らしはあるけれど、それを実現することは可能か、またどうしたら実現できるのか。
くだらない夢や妄想は捨てて、そろそろ現実と向き合わなければならない。

これまでのように、何も気にせずに暮らしていたら、ちょっと不安だ。
経済面、自身の健康面、暮らしのかたち、様々な面から老後の生活がどんな形になるかを導き出し、少しでも理想の暮らしに近づけるよう、努力していく必要がありそうだ。

まずは健康に留意し、無駄遣いを省いて老後に備えるところから始めてみよう。

そんな基本的なところに関して、まったく無頓着に生きてきた脳天気な自分を悔いる暇はない!

さもなくば、プライドを捨てて、子供の世話にならなければ生きていけない老人になってしまう。

どう考えても、やはりそれだけは避けたい。

まだ50代だ。楽天家の夫が言うように、これから軌道修正はいくらでも可能だ。

今後10年の頑張りで、老後が決まると肝に銘じて、真面目に生きていこうと思うのだった。