In other words

I really don't know life at all ...

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週末に繁華街の本屋さんへ行ってはいけない!と思った幾つかの理由。

近所の本屋さんが閉店してから久しい。
わりと品揃えも好みで、週に何度も足を運んでいたお気に入りの本屋さんだった。

本屋さんというのは、その店によってカラーがある。
オフィス街ならビジネス本が充実、お洒落なエリアではデザインやファッション関連が豊富といった具合に、それぞれどんな系統の本が書棚に並ぶのか、その分量が違うのだ。
ただ、繁華街にあるような大型書店などは、ほとんどの分野をカバーしてくれる。

近所の本屋さんがなくなって以来、私もそんな大型書店によく足を運ぶようになった。

ところが、最近は本屋さんへ行くたびにモヤモヤとすることが多くなった。とりわけ週末の本屋さんでは、そんな事例に遭遇することが多い。

先日も欲しい本があり、たまたま週末にそんな繁華街にある大型書店に行ったのだけれど、あらためてこりごり。。。
もう、週末の本屋さんへは決して行くまいと思った。



ギャン泣きする子を無視する親
こんなことを言うと、「未来を担う子供を蔑ろにするとは⁉︎」などと非難の声が上がりそうだけれど、これは大暴れする子、泣く子が問題なのではなく、あくまでも保護者に対するモヤモヤだ。

例えば3歳児にとって、本屋など退屈極まりない場所だ。
幼児コーナーならまだしも、若い女性向けの自分磨きコーナー(のような)本棚の前なら尚更だ。
お母様が夢中になって立ち読みをしている間、ベビーカーに乗せられた子供は退屈なのか、不快なのか、全力で身を仰け反らせて泣き叫んでいた。
しかし、当のお母様はといえば、子供にチラリとも視線を向けることなく、夢中で立ち読み続行だ。

子育て経験がある人にはわかると思うのだけれど、自分の子供の泣き声には耐性ができているものだ。いくらそばで泣かれようが、それは日常茶飯事。
それはわかる。しかし、子供が泣いているのだ。
子供も何かしら訴えたいことがあるからこそ声を上げている。

お腹が空いた。オムツが気持ち悪い。ここはつまらない。暑い、寒い。なんだかわからないけどイライラする。
理由はさまざまなだろうけれど、子供なりに泣いて訴えたいことがある。

私がモヤッとするのは、そんな子供の訴えに耳を傾けるけるどころか、チラリとも注意を払わず、自分磨き本に没頭している母親になのだ。

確かに四六時中子供と一緒。自分の時間など微塵もないのだから、たまには息抜きしたい気持ちもわかる。
こんな時くらいは仕方ないでしょ。と、そんな声もあるだろう。
しかし、子を持つという人生を選択したのは、自分自身であるということを忘れてはいけない。

私も2人の子を持つ母親だからわかるけれど、それはそれは鬱陶しいものだ。
成人した子供たちでさえ、今でも「私の話を聞いて!」とばかりに、こちらの事情お構いなしに、入れ替わり立ち替わり、話しをしにくる。これがブログを書いている時なんかだと、頼むから静かにして、あっちに行ってよ!と思う。
しかし、子供が親に何かを訴えたり、話したりしたいときは、それなりの理由があるのだと思って耳を傾けるようにしている。

その話がたとえバカなジョークだとしても、もしかしたらその心の奥に鬱々とするようなことが隠れていて、気持ちを明るくしたいがために話しかけてきているのかもしれない。

心は見えないものだからこそ、その言動の裏側になにか隠れているかもしれないという前提で行動したいと思う。



話は逸れたが、つまり親とは子供にとってそんな存在なのだ。
辛い時、悲しい時、苦しい時、そんな時に子供たちは親に「助けて」と訴えかけてくる。

そんな子供のギャン泣きという訴えを無視する親に、私はモヤモヤしてしまうのだ。

今の社会は許容性が失われつつある。昭和の時代に比べると、寛容さが希薄になっている。

相手がたとえ小さな赤ちゃんだとしても、泣くことすら許そうとしない人もいるのだ。

少しばかりの想像力がある方であれば、「人様のご迷惑になるわ」と思い、ギャン泣きする子供を連れ、そっと外に出るというくらいの気遣いに思い至る。つまり危機からの脱出だ。ほとんどの方々はそんな本能を持っているからそうしている。

しかし、そんなお母様、お父様ばかりではないのだ。自分が平気なら他人も平気、そんな思い込みがあるのか、または子供は騒いで当たり前、未来を担う社会の宝なのだから容認せよと、まるで金の卵を産んだのかの如く、勘違いしているのか。。。

百歩譲って金の卵だとしても、その金の卵をかち割ってやろうと考えている輩がそばにいないとは限らないのだ。

子育てを終えた世代の女性は、概して子育て世代に対して厳しい目を向けるという批判をよく耳にする。
なるほど。。。私がそれだ。。。

喉元過ぎれば他人事。子育ての大変さは承知しつつも、みんな通ってきた道なのよと、容赦ない。

ただ、子育てを終えた世代だけでなく、子供を持たない人などにとっても同じなのではないかと思う。

本屋に限らずレストランなどでもそうなのだけれど、静かにすべきところではする。それができないのなら、連れて行かない。それが子育てというものだと私は思っている。

昨今では「母親になっても、ひとりの女として、ひとりの人間として人生を楽しみたい」と言う考え方が王道だろうけれど、どう考えてもそれは不可能だ。
子供がいることで我慢しなければいけないことは多い。不可能なことも然り。
だってコブ付きになってしまったのだもの。

しかし、誰に頼まれて子を産んだわけではない。すべて自分が望んでのことなのだから、その責任を担うのは当然のこと。
今の世の中は自己責任という考えが批判される風潮にあるけれど、少なくとも子供が成人するまでは、産んだものが責任を負う。そう考えることが、最終的に自分の子供を守ることにも繋がるのではないだろうか。

その子供が可愛いと思うのは、極端な話、親やその身内くらいのもの。他人にとってはただうるさく迷惑な存在になり得る。
そう考えると、危険を考慮することも必要となるのだ。
昨今は予想もしないような犯罪が頻発している。いつなんどき、自分やその子供がそのターゲットになるかわからない。もはや日本も安全安心という国ではなくなった。
誰もが温かい目で子供を見守ってくれているなどあり得ない。人を信用するべきではないのだ。

それと同時に、子供の心を守るためにも、親はそれがたとえギャン泣きであろうとも、子供と向き合い、子供の声を聞く。それが産んだものの使命であると、同じ親として思うのだ。

赤ちゃんでも、大人でも、みんな同じ。
誰かから心を寄せてもらうことが必要で、それが温かい心を育むのだと思っている。



ソーシャルディスタンス無視の爺さん
このコロナ禍を経た社会では、誰もが意図して物理的に人との距離を取ろうと行動しているものだけれど、運が悪いとそうでない人で出会ってしまうこともあり、ちょっと不快な思いをする。

週末とはいえ、書店などはそれほど密を作るような場所ではないからと安心していたら、すぐ隣にかなりご年配の男性がピタリとくっついてきた。
腕が触れ合うほどで、まさにピタリという距離だ。

女性ならここで「痴漢もどきか⁉︎」と身構えるところだけれど、なんとなく雰囲気からそういう意図はまったくないと感じた。
なにより50を過ぎたおばちゃんに擦り寄ってくる男性はいないだろう。

ソーシャルディスタンスという概念など持たず、ただ自分が見たい本を手にしようという行動なのだと思う。
こんな場合、「すみません」と、一声かけて、場所を譲ってもらえばいいだけのことなのに、この類の年寄りは決してそんな気遣いはしない。
新型コロナも5類に分類され、もはや普通の風邪と同じになったという安心感なのだろうか、とにかく容赦なく距離を詰めてくる。安心するなかれ、お取り寄りにとってはまだまだリスキーであることには違いない。

すぐにその場を離れたのだけれど、そんな爺さんはあちらこちらの本棚の前で、ソーシャルディスタンス無視行動を繰り返していた。

ただ、こんな老人を見ていると、「我もいつか行く道か?」と悲しみを覚えたりもする。
こうした行動が老化によるものであるなら、自分も全く無関係でいられるとは断言できない。
30年後、迷惑なお婆さんにならないよう、心して歳を重ねていかねばと思う。



立ち読みに夢中で本棚をふさぐカップル。
これは概して若いカップル率が高い。
きっと二人だけの世界にいるせいで、他者への配慮など宇宙の彼方へ飛んでしまっているのだろう。幸せなのはなによりだけれど。。。

誰が誰とくっつこうがどうでもいいことだけれど、買いもしない本をいつまでもいつまでも2人でいじくっているのはいかがなものか。。。

見たい本があったので、「すみません」と声をかけて手を伸ばしても、一向に退く気配はない。
私の姿など宙を舞う埃と同じようなものなのかも知れない。
そこは完全に二人の世界だ。。。

そんなことは、二人だけでやってほしい。それほど楽しい本なら、きちんとお金を払って自分のものにし、自分たちの世界に持ち帰ってほしい。
嫉妬でもなんでもなくそう思う。

独り言がうるさすぎる爺さん。
朗読しながら、その間に私感を盛り込んだ大きな独り言を言い続けるおじいさんがいた。
つぶやき程度なら「ああ、独り言ね」と気にならないのだけれど、この声がやたら大きく、気になって仕方がない。

これもソーシャルディスタンス無視のお爺さん同様に、同情はできないけれど、ちょっと思うところはある。
気をつけよう。。。

それにしても、このようなケースでは必ずお爺さんばかりなのが不思議だ。
男も女も同じように歳をとるのに、なぜか自分本位に振る舞うのはお爺さんばかりなのだ。
これは私がたまたま遭遇したのがお爺さんなだけで、実際は違うかもしれないので、私の偏見である可能性はある。

どうでもいいけれど、本屋で読了していく客。
私にとっては邪魔にさえならなければ、なんの不利益もないのでどうでもいいことなのだけれど、本屋さんの立場となれば気の毒としか言いようがない。

ただでさえ本が売れない時代だ。読了してしまうほど面白いと思うのなら、きちんと購入して欲しいと思うのが本音ではないだろうか。
私が本屋さんであったら、そう思う。
なにより、その図々しさに気分が悪くなる。

昨今では本屋さんにカフェが併設されてあり、本を購入せずとも自由にコーヒーなど啜りながら座り読みOKとしているところもある。
本よりもドリンクを売りたいという意図なのか、そんなサービスの提供によって客を呼び込もうという趣旨なのか。。。
よくわからないけれど、本屋さん側が「買わなくてもOK、立ち読み、座り読みOK」ということであれば、人様がとやかく言うことではない。

ただ、けちんぼな私からすれば「もし私が本屋さんだったら、それは絶対にNGだわ!」などと思うのだ。
まさに余計なお世話。。。



と、そん感じで、なんだか落ち着いて本を選ぶこともできず、モヤモヤして本屋を早々に出てくることが増えたこの頃なのだけれど、本屋さん自体は大好きだ。
特に欲しい本がなくても、本屋さんの中をぶらぶらとして、意外な出会いをすることもあるから、常々機会があれば足を運びたいと思ってきた。

ただ、最近はそんなメリット以上に不快だと感じることが多くなった。そうなると、やはりamazonさんに頼るしかなさそうだと気持ちが傾いていく。
ポチリとすれば、翌日には玄関先に置いてくれる便利さもそれを後押しする。

この手軽さを考えると、街の書店が姿を消していくのもわかるのだけれど、やはり実店舗がなくなるのも寂しい。
散々amazonのお世話になっていながらもそう思う。

数年前だろうか、amazonと大手出版社の直接取引が話題になったことがあった。これによって取次がどうなるのか「異例の事態」であるという記事を読んだ覚えがある。
本が売れなくなったと言われて久しい昨今、この流れが進めば、街の本屋さんにとってはさらなる打撃になるかもしれないと思ったものだ。

やはり街の本屋さんがなくなるのはつまらない。未知のストーリーや知識がズラリと並んだ本棚の前に立つと、気持ちがワクワクする。
ネットで親切に出てくる傾向に基づいたおすすめ本なども便利なものだと思うけれど、それとは逆に自分の足で本棚の間を歩き、目についた本に手を伸ばし、意外な本との出会いをするのも楽しいものだ。

さすがに週末の本屋さんは避けたいけれど、どうせ無職の専業主婦だ。わざわざ週末に行かずとも、平日の午前中を選べばいいだけだ。
街の本屋さん存続に少しでも貢献できるよう、amazonはほどほどにして、なるべくなら書店に足を運びそこで本を購入しよう。

そんなことを思いつつ、また今日も一冊ポチリとしたのだけれど。。。