In other words

I really don't know life at all ...

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結末の解釈を視聴者に委ねる映画やドラマに悶々。第二弾がないならスッキリさせて!

前回の投稿から1ヶ月以上経ってしまった。元々不定期投稿のブログなのだけれど、さすがに1ヶ月は怠け過ぎだ(笑)
他にお菓子がテーマのメインブログ、毎日投稿の日記ブログの2つのブログもあるので、そちらを書くのにいっぱいだったと、一応自分に言い訳をしておこう。

2つのブログを書く合間に、余裕があればこちらもと思っているのだけれど、どうしても忘れがちになる。
それでも頑張り過ぎない程度に、これからもボチボチ続けていくつもりだ。

仕事もしていない無職の専業主婦、しかも子供達二人は成人しているので、日々ほとんどは自分時間と言ってもいい。
子育て最盛期に比べれば、まったくのんびりとしたものだ。
そんな感じで決して時間がないわけではないのだけれど、ブログの他にも多肉植物のお世話をしたり、Netflixや U-NEXTなど、5つのサブスクでドラマや映画も楽しんでいるため、家にいるときも結構忙しい(笑)

最近も少し長い韓流ドラマを観ていた。
今日はそこでちょっと感じたことを書いてみようと思う。



年齢と共に理解力や想像力というのは鈍るものなのだろうか。。。

NetflixやU-NEXTなどサブスクで韓流ドラマや映画を観ていると、最近は結末がはっきりとしない作品が多いように感じる。
いわゆる、曖昧な感じで終わり、はっきりとどうなったかは観た者にその解釈を委ねるといった感じだ。

例えば、第二弾が計画されていて、その伏線としての終わり方ならいい。そうしたものは「ああ、まだ続きがあるのね」と、先を楽しみにできる。
ところがそうでない作品の場合は、まるで「結末は好きに解釈してね!」と丸投げされたようで、なんだか悶々としてしまうのだ。

「これは、私の理解力がない?ひょっとして、どこかに結末を示唆するようなシーンがあった⁉︎」

そんな風に考え、よく同じ作品を観たという同年代の友人に意見を聞いてみることがある。
すると、決まって「そうでしょ⁉︎ あれ、最後はどういう意味?どうなったの?」と、同じような答えが返ってくるのだ。

ある時、ある同じ作品を観た20代の娘に、「あの作品、終わりがよくわからなくなかった?」と尋ねると、「え?わからない?あれはね。。。」と、それがまるで自分の作った作品かの如く、自身の解釈をトクトクと語られたということがあった。

これはなんなのだろうか。。。

自分の解釈が正しいか否かを考える必要など感じていない。どんな解釈をしようが、その答えが例え真逆だったとしても問題ではないといった、あっけらかんとした感じ。。。

自分に自信があるというのではなく、どんな受け止め方も認められて当たり前と思っているのでは?と感じた。



私のように昭和の時代を生きてきた人間は、それが白か黒かハッキリしなければ気が済まない。しかし今は多様性が良しとされる時代だ。
正しいか、誤りかは問題ではないのだろう。

一時話題になった、運動会での徒競走。順位をつけることはせず、みんなで仲良くゴールインしましょうというやつだ。
ちょっと例えは違うかもしれないけれど、つまりは正解は必要ではなく、どんな解釈をしたって、各々がそれでハッピー、納得できればいいじゃないのよ!ということなのではないだろうか。

これもまた私は悶々とする。自分が勝者か敗者かはっきりしないのは気持ちが悪い。
勝者ならば大喜びして天狗になろう。敗者ならその悔しさを払拭すべくリベンジに燃えようではないか!
そんな風に潔く自分を納得させることができるからだ。

ん〜、やはり例えが少し違う。。。

けれど、結局のところ、「はっきりさせようではないか!」ということなのだ。

明るい恋愛ドラマなどだと、紆余曲折あったものの、最後はめでたくゴールイン。
そんなハッピーエンドか好きな私は、とにかく結末を自身の解釈に委ねられるのなら、ハッピーにおさめたいところなのだけれど、それがどうもストンとできないことが多い。
どうにか自分のハッピーという結末に落とし込もうと、ドラマに描かれた情景を思い出そうとするのだけれど、いかんせん物忘れが激しい。ついさっきの出来事すら忘れてしまうような有様なので、16話もある細かいストーリーはおろか、重要なシーンですら終わればスッキリと忘れてしまっている。

韓流ドラマに夢中になるのは、私のような中年の女性が多いはずだ。
是非とも、白黒ハッキリわかるようなハッピーエンドのドラマをお願いしたい。