In other words

I really don't know life at all ...

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紫陽花の季節に思い出すこと。痛みはなくなれど、消えない記憶に心揺れる。

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梅雨が明けるくらいまでは、なるべく外出を控えようと決めていたけれど、実際に社会が動き始めると、自分だけが止まっているわけにもいかなくなる。

自分の用事といえば近所での買い物と、定期的に通っている病院くらい。

しかし、最近では子供に関することでも外出しなければならないことが多々出てきている。
そうなると、嫌でも電車やバスに乗って出かけることになる。
そして出かけたら出かけたで、せっかくだからついでに買い物をしていこうとなる。

これが気の緩みというものだとわかっていながら、ちゃんとマスクをして気をつけていれば大丈夫かなと思ってしまう。

先日も病院へ行くために、久しぶりに電車に乗って少し離れた街へ行った。
外へ出たついでにと、帰りに銀座へ寄ってみると、百貨店の入口には行列ができ、4丁目の交差点も信号待ちをする人で、何気に「密」。。。

電車の中も街もすっかりかつての混雑を取り戻していたのだった。
少し困惑しながらも大急ぎで買い物を済ませ、家路を急いだ。

帰る道すがら、道端に咲く紫陽花がとても綺麗で、やっぱり外出はいいものだと思った。





外へ出れば出るほどに、警戒心はどんどん薄れていく。
梅雨が明けるくらいまでは家にこもるつもりでいたけれど、そろそろ少しずつ外に向かう生活を取り戻してもいいのでないかと、気持ちが揺れ始めた。

そこで百貨店へいってみようと思い立った。前回は人の多さに怯んでゆっくりと買い物をすることができなかったからリベンジだ。

コロナ以前と同じように買い物をしている人々を見ていると、怖いウィルスなど存在しないかのようだ。買い物をしている時はとても楽しい。
けれど、ふとした時に不安が過ぎる。

見えるものなら怖がる必要はない。見えないからこそ怖いのだ。。。

結局のところ、まだまだ以前のように素直には楽しめないのだなと思った。

それならと、今度は晴れた日にちょっと足を延ばして街歩きをしようと出かけてみた。
以前、ウォーキングを日課にしていた頃、よく歩いていたところを選んだ。

ちょっとした思い出のある街だから、以前はよく足を運んだものだったけれど、決してよい思い出ばかりの街ではなかった。

ただ、そこには青い紫陽花が盛大に咲いている場所があって、それ見たさについつい足が向いてしまうのだ。





去年この季節に少し悲しい気持ちで同じ紫陽花を見ていたっけと、ふと思い出した。

その頃、なんとなく自分に自信が持てないと感じていた頃だった。自覚できるほど急速に失われていく若さに、抗いようもなく失望していた。

そんな弱気な心に悲しい思い出が重なったのかもしれない。

心が弱っている時というのは、とても感受性が豊かになるのか、木々の緑や花の色にやたら心を揺さぶられる。
寂しさや悲しさを癒すみたいに、その美しさが心に沁みるのだ。

どんなことがあっても、時間が解決してくれるということはこれまでの経験からよくわかっている。転んで作った擦り傷が少しづつ治癒していくように、心の傷もだんだんと薄れていく。
それでも、その時に見ていたのと同じ風景を目にすると、その時の痛みが思いだされる。どんな痛みかは忘れてしまっても、確かに痛みがあったことを思い出すのだ。
なんだかお産の痛みのようだ。。。





何年も前の古傷が、突然ふと脳裏に過ぎることがある。
そんな時、不思議とそれを忘れたくないと思う。忘れなければいけないことなのに、忘れてしまったらなにか大切にしたいものまで失ってしまうような気がするのだ。本当は失うものなど一つもありはしない躓きの一つであるにも関わらずだ。

これは思い出さなくてもいいこと。そう言い聞かせて、記憶を完全に遠ざけていると、自然とその古傷は消えていく。

それでも、青い紫陽花を見た時のように何かの拍子にまたそれが顔を出す。
花のように美しい思い出であればいいけれど、美しいものを見た時に限って、なぜかそんな辛い記憶ばかりを思い出すのだった。

辛いならその場所へ行かなければいいと思いつつ、綺麗な紫陽花が見たくて、知らず知らずに足が向く。

なにはともあれ、花の命は短い。

新型コロナや過ぎてしまった記憶に心を揺さぶられているうちに、あっという間にその美しさを失うだろう。

もっと単純に、ただ綺麗な紫陽花の花を見るためだけに外へ出てもいいのかな。。。

そんな風に思ったりしたのだった。