In other words

I really don't know life at all ...

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パブリックマナーはないのか!5年ぶりに爆発させた怒りの末に悟ったこと。

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最近、街を歩いていると、人にぶつかっても平気で無視して歩き去る人が多くなったように感じる。

これは道端のお地蔵様に当たって素知らぬ顔で逃げるのと、同じくらいに無慈悲かつ一方的な行為ではないかと思っている。

とりわけ、必死で水平を保ちながら慎重に買った和菓子やケーキを持ち帰る際に、後ろからドンとぶつかられ、挙句にバサッ!っとお菓子の入った手提げ袋にまでダメージを与えられたとなったら、思わず襟首掴みたいくらいの怒りを覚える。
食べ物の怨みとは、それほどのものなのだ。

しかし、そんな怒りを露わにすることは、もうない。私も50を越えた立派な中年だ。ここで大声を張り上げたりしたら、頭のおかしい人扱いされるのは、私の方だと思うから。

忍の一字。。。

最も苦手とする、耐え忍ぶということを、「これは今生における修行だ」と、まるで出家した尼さんのように俯き、耐え忍ぶのである。

「耐える」という行為もある種、慣れのようなものがあり、耐えることを続けていると、自然に怒りの沸点が高くなり、ある程度のことなら笑って黙認できるようになってしまうのだから不思議だ。

しかし、どんなに慣れようが、本当に出家した尼さんというわけでもないので、その忍耐にも限界があると知った。





先日、友人とランチがてら銀座の百貨店へ行った帰りのこと。
電車に乗っていたところ、目的地の駅に到着したので降りようとすると、目の前に30代前半と思しき、ごくごく普通の女性が立ち塞がっていた。
降りる人が大勢いる中、それより早く、我先に乗り込もうという体制なのが見てとれた。

「降りる人が先」
これは暗黙のマナーでもある。当然私もこちらに優先権ありと、ドアが開いたと同時に降りようとしたのだれど、その女性が脇によける気配はない。それどころか「退け」とばかりにこちらを睨みつけてくる。

女性が目の前にいたら、当然私は歩を進めることができない。
ドアが開いても一向に降りることのできない人々が、私の背中に耐え難い圧をかけてくる。

さすがの私も堪りかね、口を開いた。

「降りる人が先です。脇によけていただけませんか?」

とても穏やかに、ごく自然お願いしてみた。私にしては褒めてあげたいくらいの忍耐強さと穏やかをもっての対処だったと思っている。

当然、「あら、すみません」と、脇に避けるのかと思ったところ。。。





「はあ?」

その女性は不機嫌さを顔面いっぱいに貼り付けたような顔で、そう小さな声で呟くと、よけるどころか「はん!」っと、薄笑いを浮かべ無理やり車中に捻り込もうとしてきたのだ。

ちょっと驚いた。
最低限のパブリックマナーも無視し、己の思惑を無理やりにでも押し通そうとする女性に。。。

考えてみたら、こんなことは珍しいことではないはずだ。若さと美しさの剥がれた落ちた中年女性に親切心を見せてくれる人はそういない。

もしかしたら、大人しく私が道を譲れば、事を大きくせずに済んだのかもしれない。
しかし、私には無理だった。。。

「忍」の糸がぷつりと切れた尼さんは、ほっかむりを取り去り、宙に投げた(イメージ)。

もちろんいきなり掴みかかったりはしない。ただ行手を遮った。

中年になり、しっかりと肉のついた身体はこんな時のためにあるのか!というくらい素晴らしい働きをする。

鳥の餌ほどしか食べていないのでは?と思うほど華奢で高いヒールを履いた女性に私を薙ぎ倒すことは不可能だ。

行手を塞いだあと、私は丁寧に、丁寧すぎるくらいに慇懃無礼に、声を上げた。





「あーた!パブリックマナーは守りなさい!何を偉そうにしてるの!今すぐ道をおあけなさいな」

まるでデビ夫人のコピーおばさんのような口調だ。

すると、その女性は見たこともないモンスターと対峙したかのように、顔を引きつらせて一瞬動かなくなった。。。
そして次の瞬間、脱兎の如くその場から走り去り、少し離れた車両へ移動したようだった。

予期せぬ出来事だったのだろうと思う。

百貨店の紙袋を両手いっぱいに提げ、ヒーヒーしているおばさんから、いきなりパブリックマナーだなんだのと大声をあげられたのだから。

それにしても、拍子抜けだった。 自分から売った喧嘩なのに、いきなり逃げ出すとは。。。素直に買った私はなんのために公衆の面前で大声を張り上げたのだか。。。


私は幼少の頃から人間拡声機と呼ばれるほどに声が大きい。普段は意識して声を抑えて話すようにしているけれど、こんな状況下においては、そのような配慮は不要とばかりに、その大きな声がさらに大きくなる傾向にある。

そこが、「おかしい人」と思われる所以かとも思うだけれど、効果の程は絶大であるということを、過去の数々の経験から学んでいるせいか、無意識のうちについつい声が大きくなってしまうのだ。

周りにいた人達はきっと驚いたことだろう。比較的混んだ電車の中では、前の方で何が起こっているかはわからなかっただろうから。

一緒にいた友人は満足そうな笑を浮かべていた。
古くからの友人なので、私がこんな時にどんな行動をとるかはもちろん、声の大きさも知っている。
最近は出家した尼さんのようになっていると、自慢をしていた私に対し、「ほらね、三つ子の魂百までよ」などと思っていたのだ。

「やっぱり我慢できなかったわね。我慢できたら、私が言ってやろうかと思っていたんだけど」

その言葉を聞き、「ああ、私が言わずとも、私以上に気の短いこの人がいたのだったわ」
そう、後悔した。





私はこのようなことがあると、後から必ず自己嫌悪に陥る。自分の怒りをコントロールできない未熟さが嫌になるのだ。

そんなことが繰り返されてきたからこそ、もう如何なることがあろうとも、決して怒ってはならない。
私は数年前にそう誓ったはずだった。

たかが、電車に乗るマナーがないくらいで、わざわざ人前で大きな声をあげることもなかったのに。何故我慢できなかったのかと。

しかし、最初から怒鳴りつけた訳ではなかった。礼儀をもって伝えたにもかかわらず、「はあ?」と馬鹿にしたような態度をとったのはあちらだ。
つまり、相手もやる気満々だったということだ。

世の中には、自分よりも弱い人間には横柄で、強い人間の前では借りてきた猫のようになる人が少なくない。
言葉はよくないけれど、嫌な思いをしたくなければ、舐めていい相手であると思われないことだ。

しかし、それが元で自己嫌悪に陥るのだから、私は一体どうしたらいいのだろう?

このように公衆の面前で怒りを露わにしたのは、実に5年ぶりくらいだった。

これまでも、耐えがたいほどに理不尽なことはあったけれど、それでも怒りを鎮めることができていたというのに、なぜその時は堪えることができなかったのだろうか?

思い当たる理由はあった。





それは、お腹が空いていたからだ。
しっかりランチは食べたものの、この日はお買い物に時間をとられ、デザートと称したお三時のお菓子を食べていなかったのだ。
午後、そろそ小腹が空いてきたなと感じていたところの出来事だった。

そんな単純な理由で怒ってしまう私は、やはり修行が必要なのかも知れない。
それが嫌ならば、「怒らない」という禁を破らないためにも、カロリーメイトでも持ち歩くほかないだろう。。。

その日、私は本屋さんへ寄り、仏教の教えに関する本を手に取った。仏様に寄り添ってもらえれば、少しは自己嫌悪からも解放されるのでは?との期待をもってだ。
しかし、効果はなかった。許すことを解く仏教の教えを見て、「許せなかった自分」への自己嫌悪がさらに募っただけだった。

ところが、帰宅してデパ地下で買ったお菓子を食べていたら、全て忘れてしまった。。。
仏教の教えよりも自分の好きなものが、救いになるということがわかった。
なによりも、どんな不愉快な思いも時間が解決してくれることを知ったのだ。

人生とは何事も経験だ。ここで私は一つ学んだ。
公衆の面前に出る際は、何か甘いものでも携帯しておくに限る!空腹は敵だということを。
そして、どんなに嫌な出来事、辛い出来事があろうとも、それはやがて時間が解決に導いてくれるということを。

つまり、人生とはそれほど複雑なものではなく、シンプルに考えるべきなのだ。
その方がきっと幸福でいられる気がする。

そんなことを件の出来事で考えたのだった。。。