In other words

I really don't know life at all ...

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土いじりが楽しくなったら、歳をとった証拠という話は本当だった。

暑い日が続いている。暑さのみならず、日本特有の湿度にすっかり体力を消耗し、ここ数年は自分の体調を気遣うことも多くなった。
年齢と共に暑さよりも寒さが堪えるようになってきたため、寒いよりはマシだと思っていたのだけれど、さすがにここまでムシムシと暑いと、体調が悪くなったりすることもある。

気遣うのは自身の体調だけでなく、ベランダで育てている植物もだ。
春になって花の種を蒔き、発芽からどんどん成長する様を見たり、あれこれ並べた多肉植物がどんどん葉を増やしていくのを見て、嬉しくなったりと、ベランダにしゃがみ込んでいる時間が楽しみになっている。最近は暑いので早朝の短い時間だけにしているけれど、それでも十分癒しになる。

独身時代は家にはほとんど寝に帰るだけ、結婚して子を持ってからは、家事と育児に明け暮れる。そんな生活をしていたものだけれど、このように穏やかな暮らしを楽しめるようになったのは、ここ数年のことだ。

子供が産まれてから今に至るまで、私はほとんど専業主婦として暮らしてきた。仕事をしていない無職の身の上ではあったけれど、さすがに子育てには手間も時間もかかり、のんびり植物などを眺めている暇はなかった。
家事育児の合間にできた隙間時間にしか好きなことに目を向けることができなかった。
子供達が幼稚園や学校に通う歳になっても、それは時間制限ありきだったので、単身であった頃のように心底一つのことに没頭することも難しかった。

そんな20数年を経て、ようやく二人の子供達は成人し、長女は一人暮らしのために家を出た。同居の次女も大学のお勉強とバイトがかなり忙しいようで、ほとんど家にはいない。
子供以上に手のかかる夫はいるけれど、実際には自立した大人なので、これまでのように子供に手をかけるのと同じようにお世話をする必要もない。

子育てから卒業した今、専業主婦としての仕事は大幅に軽減された。
専業主婦の主な仕事は家事育児であるけれど、まず育児がなくなったことで、家事の方も必然的に仕事量が激減したのだ。
お洗濯物も少なくなり、食事にしても買い物の頻度も作る量も半分になった。お掃除も人が少なければ少ないだけ、汚れは少なくなるもので、以前のように一日中あちらこちら片付けて回らなくて済むようになったのだ。

そうなると、かなり時間的な余裕ができる。今は50代でも多くの主婦が働いているけれど、私は一旦そのレールから外れてしまったので、今更戻る気にもならない。余程のことがない限りは、生涯専業主婦でいる予定だ。

子育てから卒業した専業主婦となると、よほど暇を持て余しているだろうと想像していたけれど、幸いなことにそうではない。
相変わらず子供達や夫から雑用を頼まれること度々で、そのために常に身体を空けている必要があるくらい、ちょこちょこと雑事を投げて寄越されている。
新型コロナが一段落してからは、お友達とのランチの機会も増えた。趣味のお菓子を求めて出かけたり、これでなかなか忙しい毎日だ。

とはいえ、やはりお仕事をしている方に比べれば、まだまだ時間的に余裕があると言っていいだろう。

なにも用事がない日は、日がな一日のんびりと植物を愛でる時間もできた。

都心のマンションゆえ、ベランダは猫の額ほどしかないのだけれど、今はそこで植物を育てることが趣味になっている。

季節の花を楽しむために種蒔きをして、苗が育つのを楽しんだり、多肉植物がムクムクと増えていくのを観察したり、桜をはじめ木瓜ジャスミンなどの小さな木、アボガドは数年前に食べ終わった種から育てたもので、すでに1メートル以上も伸びている。
そんな植物達を眺めるのが、今は何よりも楽しい。

あれほどアクティブに動き回っていたのだから、テニスやダンスなどもう少し体を動かすようなことをやるとか、手芸などクリエイティブな趣味を持つとかすればいいと思うところだけれど、なぜか私は土に向かったのだ。



思い返してみれば、それはかつて見た亡き父の姿そのままだ。
仕事人間で次々に新しいビジネスを起こしては、お金を作ることを楽しみ、趣味もビジネスに付随したゴルフのお付き合いなど、常に仕事中心に忙しく動き回っていた。

そんなアクティブな人間が、ある時期からいきなり野菜を作ることに精を出し始めたのだ。
空いた土地を買い、そこを平地にして耕し、一つの畑を作ったと思ったら、あらゆる野菜を植えて朝に夕にとその畑で作業を始めたのだった。
一度ハマるととことんやり尽くすというマニアックな性格のまま、農具のみならずトラクターのようなものまで運び込み、夏には麦わら帽子をかぶり、悠々とトラクターに跨っていた。

それは父がちょうど還暦を過ぎた年齢になった頃だったと記憶している。

私は海外で暮らしており、一時帰国でそんな父の変化を見て、たいそう驚いたものだった。
当時は一体どうしたことか?そのうち仏門にでも入ってしまうのでは?と思ったくらいだ。

当時、友人にその話をしたところ、「それは歳をとった証拠」であるという意外な答えが返ってきた。
その話をしたのはかなり昔のことなので、話の内容は詳しく覚えていないのだけれど、「人は歳をとると土に向かう」という言葉だけは鮮明に覚えている。

「土に向かう」とは、より自然に歩み寄るということなのだろうか。

父の場合、若い頃からの友人もいたけれど、現役時代の人付き合いはビジネス絡みがほとんどだったように見えた。趣味もまたその延長のようなことばかりであった。
40年近くもそのように走り続けできたのは、父自身も言っていたとおり「家族のため」だった。

家族に安心して豊かな生活を送らせることだけを考えてきた人間が、その役目を終えた時に求めたのは自然から得られる安らぎだったということなのだろうか。

もう一つ、父にとっての転機があった。それは還暦を過ぎた頃、若い頃から仲良くしていた仲間が一人、二人と旅立っていき、心許せる仲間がいなくなってしまったことだった。
これにはかなり気落ちしたようで、それまでの勢いが影を潜めたのを私も感じたくらいだった。

同世代の友人達が一人、二人と冥土へ旅立つのを見送るたび、自身の老いを実感しているようだった。
父自身も病を抱えていたこともあり、いつ自分があちら側へ行くことになるかという不安もあったのだろう。

完全に仕事から退いたわけではなかったけれど、その頃になると会社の経営は他の人に任せ、半隠居生活に入っていった。

しかし、元々何かしていなければ気が済まない性格だったせいか、家でじっとはしていなかった。
そこで興味を持ったのが野菜作りだったのだ。

カボチャとスイカを交配させてみた!とか、新種の野菜を作ってやろう!などと嬉々として語っていたものだ。

たくさんの野菜を作っては、友人知人に分け与え、守銭奴の母は「人様にあげるために作ってるのかしらね」と苦々しく嫌味を呟くことも多かった。

そんな風に命尽きるその日まで「あの、真桑瓜はどうなった?」と、育てていた野菜の心配をしていた。



私が植物を育てることに楽しみを見出したのは、50歳をいくばか過ぎた頃だった。父より10年早い年齢だ。
たまたま表参道にある新潟のアンテナショップに並んでいた苔丸つきの桜と梅の木を買ったのがきっかけだった。
青々と葉が茂り、蕾をつけ綺麗な花を咲かせるのを見ていると、自分が日々世話をしてきた結果を見たようで嬉しくなった。

以来、季節の花の種を蒔いては、やれ芽が出た!蕾がついた!花が咲いた!と次第にベランダで過ごす時間が増えていった。

程なくして、今度は近所の花屋さんで、多肉植物が並んでいたのを見て、お花みたいだわと興味を持ち、一つ買ってみた。
それは知らないうちに肉厚な葉を増やし、ポロリと落ちた葉からも根や芽が出てくるという生命力を見せてくれた。
それが楽しくて、出かけた先で多肉植物を見つけては一つ二つと持ち帰ってくるようになり、今に至る。

多肉植物は毎日の水やりも必要ないので、旅行などで家を空ける際もそれほど気を遣うこともない。

鉢自体も小さいので、置く場所に苦労することもなく、これはいい!と思ったものだ。
しかし、見つけるたびに買ってくるものだから、次第に置き場所に困るようになり、横に並べることができないのなら、縦にとベランダに棚を置くことにした。
あれから何年経つのか、すでにベランダには3つの棚が並んでいる状態だ。

父のように植物を育てるためだけに、その場所を用意するところまではいかないけれど、植物のためにもっと広いベランダのある家に引っ越しをしようかと、たびたび考えるほどには夢中になっている。

同じように子育てを終えた友人達からは、さまざまなお稽古事や趣味のクラスなどのお誘いをいただく。
類は友を呼ぶで、友人達も仕事をしていない専業主婦なので、暇を持て余しているのだろう。
お料理教室やヨガ、陶芸からダンスやバレエクラスまで、やり散らかそうというくらいの勢いで誘ってくる。

しかし、私はそうしたことには一切興味を惹かれない。
ただ思うのは「みんな、元気ねぇ」ということだけだ。
新しいことを学ぼうとすれば、それなりの準備や勉強、努力が必要となる。それだけではなく時間やお金はもちろん、気力体力も相応に必要になるということなのだ。
それを考えると、なんだか億劫になる。
興味のあること、好きなことならいいけれど、お友達とのお付き合いで何かを始めるほど、私は付き合いのいい人間ではない。
元々、ものすごく面倒くさがり屋の人間なのだ。

それよりも、家のベンダにしゃがみ込んで、ゆっくりと成長していく草木を愛でている方がよほど楽しい。

これがまさに歳をとったということなのだろうかと思う。
植物の成長はとてもゆっくりで、一日二日で変化は見られない。早くて数週間、数ヶ月、大きな変化を楽しむには数年かかる。
このゆったりとした時の流れを楽しむことこそが、歳をとるということなのかも?と思い当たった。

同世代の友人達は、きっとまだ気持ちが若いのだろう。日々新しい変化を求め、その結果をすぐに見たい!という勢いが感じられる。
そうしたことに興味が持てず、あえて土に向かったのは、やはりわたしが歳をとった証拠なのだろう。

土いじりだけでなく、パン作りも一つの趣味なのだけれど、それもドライイーストを使用し、短時間で作るものではなく、生地を作るのに半日はかかるサワードウブレッドに夢中になっている。
これもまたゆっくりと生地を発酵させるプロセスを楽しむものだ。

私の時間は確実にスローダウンし、全てがのんびりモードになっているようだ。
若い頃のように次々と目まぐるしく居る場所もやる事も変わるということに楽しみを見いだせなくなっている。

土いじりをはじめ、「歳をとった証拠」はその暮らしの至る所にあったのだ。

歳はとりたくないものだと思うけれど、あえてアンチエイジングのようなことを意識するつもりもない。
なにかに抗うよりは、自然に過ごすことのほうが心地よい。

あと数年もすれば、還暦という赤いちゃんちゃんこを着る歳になると思えば、歳をとった、とらないなど考えるのも愚かなことだ。

誰にでも同じように時間は流れる。歳をとるのは自然なことなのだから、それを認めて好きなことを楽しめばいい。
好きなだけ土いじりをしようではないか!

最近、ベランダがあまりにも手狭なので、夫にもっと広いバルコニー付きのマンションに引っ越しをしようと持ちかけている。
もしもそれが叶えば、私はさらに土に向かうことになるだろう。。。